思想と宗教


「思想と宗教? さあ~ そんなもの考えたこともないな 先を急いでいるので 失礼」

しかし、こうも日本にくる外国人が多くなると、そうもいかない。思想と宗教は外国人にとって、特に西洋人にとっては大問題らしい。誤解されないように、ちゃんと説明してやってほしい。
「さあ~そんなもの考えたこともないな」…から推測できるが、日本の不倒の思想は「思想がないという思想=無思想の思想」であるらしい。また、自然災害と自然の恵みから【恐れ】と【感謝】の思想でもあるらしい。
一方、宗教といえば、感覚でとらえられた違う物一つ一つを神とする多神教と、その一つ一つを思索し、統合し、教義を作り、神をつくる、ピラミッドの頂点の一神教があるらしい。日本の宗教は、感覚でとらえられるすべてを神とみる八百萬の神(多神教)と仏典を有する仏教(一神教)の二刀流であるらしい。
さて、「らしい」という言葉をいくつ使ったであろうか。でも仕方がない。日本の不倒の思想は「無思想の思想」だから。
せめて、外国人にはこれくらいの説明をしてやりたいと思う。

さあ!理屈が好きな方は以下をどうぞ。でも、そんな人、日本にはいないかもしれない。なにせ、「無思想の思想」だから。


養老孟司の著作「無思想の発見」「遺言」の助けを借りて、日本の思想と宗教を考えてみようと思う。
養老孟司の著作は「唯脳論」「〇〇の壁」シリーズ「無思想の発見」「遺言」等々膨大であり、多くの示唆を与えてくれる。 特にその中で、一つは、「無思想の発見」の中で、日本人の思想の特徴に焦点を当ててくれたことと、二つ目は「遺言」の中で、感覚所与と意識の違いから「違う」を認める多神教と「同じ」を中心とする「一神教」に至るメカニズムを解説してくれた点である。

養老孟司著書の「無思想の発見」の中で 関係個所をまとめると

【世間(日本人としての現実世界)と思想】
大宅壮一の「無思想人宣言」、丸山真男の「日本には思想はない」、山本七平の「日本の中心には真空がある」、加藤典洋著の【日本の無思想】で、諸氏は、結局「日本には思想がない」といっている。 「日本には思想がなかった」言い換えれば「思想だなどと夢にも思ってもみなかった」ので、昨日まで鬼畜米英、一億玉砕であっても、今日からは民主主義、マッカーサー万歳で何の問題もなかった。明治維新も臨機応変に必要なときに必要な手が打てたので日本の独立が保たれた。 日本には上記の様に思想がないといわれるが、しかし行動するためには何らかの思想が必要で、従って、何か思想があるはずであるが、 それが、「思想がないという思想」だった。日本人はたいてい無宗教、無思想、無哲学だと主張する。実はそれが日本の宗教、日本の思想、日本の哲学であるということである。それは日本国の真の不倒の思想である。

以上の日本の思想の源流の一端を、以下の養老孟司の同著書の内容にみている。

日本のように自然条件に制約される社会が、その内部に「自然条件に由来する思想がある」という、日本人の風土に根差した和辻、丸山へと続く思想を引用している

【風土と思想】
日本の自然災害が、どれほど大きいか。日本列島の面積は、地球上の陸地面積の四百分の一だという。ところが人類史上に記録されたマグニチュード6以上の地震の二割、噴火の一割が日本だという。そのうえ毎年、律儀に台風が来る。地震と噴火が多いのは、東日本が北米プレート、西日本がユーラシア・プレートに乗っており、その境が本州の中央を横切る糸魚川-静岡構造線であること、その境界の南端には、あろうことかフィリピン海プレートが指状に突っ込んできて、その指の先端に日本の象徴である富士山があるという、とんでもない立地条件にある。 それから生じる自然災害は、「仕方がない」のである。前のことは「水に流して」明日からはあらためて再出発、それがいちばんだということになる。

我々の先祖は地震・津波・噴火・台風・竜巻・豪雨・豪雪・土石流・洪水・高潮・山火事・雷・干魃という、あらゆる自然災害を経験し抗うことができない自然には一種の静かな諦観(東日本大震災で世界から注目された日本人の行動様式)を示してきた。 また、災害に対し共同して対処する必要性から、「調和しなくては生きていけない」、「共生しなくては立ち向かえない」つまり「信頼がなければ生きていけない」という生活スタイルを編み出したと思われる。 一方、他国とは比べものにならない芳醇な自然があり、災害が苛酷なだけに、それだけ自然の恵みに対する敬虔さ、感謝の意を感じ、日本人としての美意識と文化を育ててきた。 以上のように、苛酷な自然災害と芳醇な自然の果実を我々の先祖が【恐れ】と【感謝】をもって神々として祭ってきたのは、当然のことのように思う。

二つ目は著書「遺言」の中で、感覚所与と意識の違いから「違う」を認める「多神教」と「同じ」を中心とする「一神教」に至るメカニズムについて感じたことを述べたい。 実はこれは、一つ目の「無思想の発見」に関連するものと思われる。 この説明も引用をさせていただく。

宗教にも「同じ」を中心とする一神教と、「違う」を認める多神教がある。その説明を私は図のように「同じ」を方法とする階層構造で説明する。 最低辺には、感覚で捉えられたもの、すべてが異なる実在がある。意識はそれに対して「同じ」という機能を働かせる。最低辺にリンゴ一個とバナナ一本があれば、クダモノと名付けて「一つにする」。クダモノと名付ければ、リンゴとバナナは「同じになる」からである。こうしてクダモノは階段を一段上がったところにあることになる。段を上がるための操作が「同じにする」という操作である。

さらに、最低辺にコメが一粒あれば、クダモノの段から、階段を一つ高くして、コクモツ、そして、タベモノとする。そうなると、リンゴもバナナもコメも、タベモノとして「同じ」にできる。この階層は上に向かってどこまでも続けられることがわかるであろう。 <中略> では頂点にはなにがあるのか。宇宙の具体的な事物のすべてを含んだ、唯一のものが位置している。これが唯一絶対神であろう。一神教が都市に発生したのは偶然ではない。私はそう思う。都市は意識が作るからである。 では、底辺を拝めればどうか。それが八百万の神である。具体的な事物は無限にあって、数えきれない。宗教では一神教が進んだ宗教だといわれることがあった。意識中心の世界では、そういう結論になるはずである。

このピラミッドで頂点を拝めば、キリスト教、イスラム教、仏教であり、底辺を眺めれば神道だ。なるほど、意識中心の「同じ」の頂点には教義(聖書・コーラン・仏典)が存在し、「同じ」のない底辺の感覚所与には教義なんてもともと存在しないのが、納得できる。

小泉八雲は
「神道は、西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、どうしても突き崩せない牙城でもある。異邦人がどんなに頑張ったところで、しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捉えることのできない、神道という存在に舌を巻くしかないのだ。」
と語った。

意識中心の「同じ」の頂点を神とする西洋をはじめとする世界中の宗教が、ベクトルのまったく反対になる最低辺に位置する八百萬の神なんぞ、神として想像すらできないであろう。 例えば、ネットを見ていて、神道の理解がようやく西洋一般に広まり始めた初めの一歩は、自然との結びつきが強い環境問題における神としての理解がほとんどである。 また同様に、小泉八雲の

「古風な迷信 素朴な神話 不思議な呪術 これら地表に現れ出た果実の遥かな下で 民族の魂の命根は生々と脈打っている この国の人々の美の感覚も 芸術の才も 剛勇の炎も 忠義の赤誠も 信仰の至情も すべてはこの魂の中に祖父より伝わり 無意識の本能にまで 育まれたものなのだから」
という文章も、縄文時代から日本民族が苛酷な自然災害と芳醇な自然からの果実を、長きに亘り感覚的所与として記憶されたと見れば、「魂の命根」としてと、「無意識の本能まで育まれた」という表現も、大いに腑に落ちるものである。 以上のような、雑な整理でありながらも、一応自分なりに納得できる形になったのも、養老孟司・小泉八雲に出会ったおかげだ。