御巡幸地(4)


倭姫命巡幸のスタート

豊鍬入姫命は以下の6つの御遷座(元伊勢)をしながら御巡幸された。

1 大和国 笠縫邑 33年 (桜井市三輪町)【檜原神社・他】
2 丹波国 吉佐の宮 4年 (宮津市大垣)【籠神社】
3 大和国 伊豆志本の宮 8年 (桜井市初瀬)【與喜天満神社・他】
4 木乃国 奈久佐濱の宮 3年 (和歌山市秋月)【日前国懸神宮・他】
5 吉備国 名方濱の宮 4年 (岡山市北区番町)【伊勢神社】
6 大和国 美和乃御諸の宮 2年 (桜井市三輪町)【大神神社・他】

しかし巡幸に年齢を重ねた豊鍬入姫命はこの6番目の美和乃御諸の宮にて、姪にあたる倭姫命に御杖代の役目を託された。
さて、ここから倭姫命の御巡幸が始まる。
この御巡幸の際、屈強な側近が付いており、「御送駅使(はゆまつかい)」と呼ばれる5人の重臣(五大夫)達であった。

・十千根命(とおちねのみこと 物部連の遠祖)巡幸の指揮をする
・大鹿嶋命(おおかしまのみこと 中臣連の祖先)占いや巡幸地の安全を計る
・武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと 阿倍臣の祖先)巡幸地の国造との交渉
・彦国葺命(ひこくにふくのみこと 和葺臣の祖先)食料や住居の確保
・武日命(たけひのみこと 大伴連)護衛の役と薬の役

これまで「命(みこと)」さんは沢山お会いしたが、また新しい「命」さんの出現だ。
お喋りべたにとって、武渟川別命・彦国葺命なんて、口に油を含んでしゃべらないと発音出来ない。
あと、身の回りの世話などをする舎人等を含め十人で巡幸を始めたのである。

大和国大宇陀から伊賀国まで2021年12月5日)

今年度巡った所は今年度中にアップと気合いを入れてみたが、結局は次年度(令和4年)の1月下旬になってしまった。
思い出してみると、今回の旅は豊鍬入姫命から倭姫命に天照大神の御杖代を引き継いで、最初に宮を移した所「宇多秋の宮」から始まる。
そこは大宇陀の地であった。

7 大和国 宇多秋の宮(宇太乃阿貴宮) 4年 (宇陀市大宇陀)【阿紀神社・他 剱主神社 】

倭姫命は4年間ここ宇多秋の宮に天照大御神をお祀りした。
訪れたは比定地「阿紀神社」である。
大宇陀道の駅から数分で到着する。
ほど近く有名な又兵衛桜がある。
しかし何となくしっとりと落ち着いた神社だ。
下の写真で見ると、右に能舞台があり、奥に神明造の本殿がある。

丁度、参集殿(集会所)では氏子の集まりの様な賑やかな声が聞こえてきた。
その玄関の横には、ここで映画「すくってごらん」のクライマックスシーンのロケがあったらしく、ポスターと写真が貼ってあった。
ももいろクローバーの百田夏菜子がヒロインらしく、帰宅したら早速調べてみようと想ったのである。

同じく、この神社の由緒書きが5ページにわたって貼ってある。
美和(三輪)から宇多阿貴宮へ至る御巡幸は以下のように記載されている。

美和の御諸の宮を御出立になった倭姫さまの御一行は、金谷(桜井市金谷)を通り慈恩寺を過ぎて下り尾でしばらくの間大神様をお祀りになって、大原(栗原)より山を越え宇太の漆原(宇陀市大字陀嬉が原)から西山を通り上り尾古墳の前の山、阿貴野照巣(あきのテレス 大宇陀本郷字テレス)の地にお着きになり、此処に社殿を建て「宇多阿貴宮」と名づけ、四年間の間大神様を斎(いつき)祀られました。(故 大阪市立大教授直木幸次郎氏説)
照巣(てれす)は阿紀神社の最初の社地で、持統天皇が迫間の高天原へ大御神様を御遷しなさるまでの間、此処で大御神様をお祀りしていました。』

ももいろクローバーの百田夏菜子ちゃんに別れを告げ、迫間の高天原を右に見ながら照巣まで細い道のドライブであった。
駐車可能な場所を見つけ、倭姫命祭祀跡の看板を確認したあと、しばらく杉の山道を歩き、その場『照巣』に到着した。
12月5日11時の手袋が恋しいほどの寒さの日であった。

かぎろひの丘万葉公園
阿紀神社の直ぐ近くに”かぎろひの丘万葉公園”がある。

とってもお腹が空いた。
大宇陀道の駅の近くにあり『和心』が今の心もちにピッタリである。

大原(栗原)より山を越え宇太の漆原(宇陀市大字陀嬉が原)とあるが、山を越えが『男坂伝承地』で越えたところが大宇陀半坂という土地で『剱主神社』がある。
その神社も宇多阿貴宮の比定地になっている。奥深い小さな神社であった。

倭姫命の夢枕に天照大御神が現れ以下のよう悟した。
「高天の原に坐(ま)して吾が見し国に吾を坐(す)え奉れ」
「高天原にいたときに見た国へ私を連れていきなさい」
この神意により4年間祀った「宇多秋の宮」を離れ、東へ向かって出立したのである。

「我が思刺(こころざ)して往く処、吉からむなば、未だ夫に嫁(あ)はざる童女(おとめ)相へ」
「私が目指し往く処が、天照大御神の御心に叶うならば、未婚の少女よ、私と出会いなさい」
と、誓約(うけひ)をたてた。

時に、佐佐波多が門(と)に、童女参り相へり
すると、佐佐波多の入口のところで、ある少女と出会った。

倭姫命が誰ですかと少女に尋ねたら
「私は天見通命(あめのみとはしのみこと)の孫、八佐加支刀部(やさかきとめ)の子の宇多の大宇祢奈(おおうねな)です。」
と答えた。そこで、みことのりして(天皇に代わって)倭姫命は尋ねた。
「御共に従ひ仕へ奉(まつ)らむや」
「お供として、私に仕えてくれませんか。」
即座に答えた。
「仕へ奉(まつ)らむ」
「われ、お仕えします。」
その童女を【大物忌(おおものいみ)】と定めて、天磐戸(あめのいはと)の鍵を預け、御鏡(八咫鏡)と御剣(天叢雲剣)を護る事を申しつけた。

大宇祢奈の覚悟  左左右右元元本本(ささううげんげんぽんぽん)

墨心(きたなきここと)を無くして、丹心(きよきこころ)を以って、清潔(きよ)く斎(いつ)き慎み、
左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、
左を左として、右と右にし、左に帰り右に廻る事も、
万事(よろづ)違(たが)ふ事なくして、太神に仕へ奉れ。
元を元とし、本を本とする故なり。

倭姫命さま。慎んで申し上げます。
黒い心(きたないこころ)をなくして丹き心(明るく清いこころ)を持って、身もきれいに清めて、大神さまを尊び慎みます。
左にあるものを、右に移したりいたしません。右にあるものを左に移したりしません。
もともと、左にあるものは左として、右にあるものを右にしたまま左にかえったり、右に廻ったりと不自然なことを一切おこなわず、大神さまにお仕えいたします。
すべてのことを、元(はじめ)を元(はじめ)のままで違うことが無きように、本(もと)を本(もと)のままで違うことの無きようにすることとします。

さて、荒井がこれをどう解釈するか。
自然と対峙してはいけない。自分も(あなたも)自然の一部なのだから。
よって、自然は自然のままで仕えて奉れ常世の国で生きるように
拡大解釈して丁度いい・・・かな。(^^)/


8 大和国 佐々波多の宮 ー (宇陀市榛原町)【篠畑神社・他】

このように、上記「大物忌」となった大宇祢奈とその弟の大荒命(おおあれのみこと)も同行し、「佐佐波多宮(ささはたのみや)」に天照大御神をお祀りしたのである。
大宇祢奈自身もこの出身の佐佐波多で篠畑神社の境内社に「畑姫君」あるいは「佐佐波多姫」としてお祀りされている。

次の写真の様に、大宇祢奈は「篠畑姫君」あるいは「佐佐波多姫」としてお祀りされている。


9 伊賀国 市守の宮 2年 (名張市平尾)【宇流冨志禰神社・蛭子神社】

崇神天皇六十四年丁亥(ひのとい)、伊賀国の隠(なばり)の市守宮(いちもりのみや)に遷幸(みゆき)なりまして、二年斎き奉(まつ)る
崇神天皇六十四年丁亥(ひのとい)年のこと。
倭姫命は伊賀国の名張にある市守宮に遷幸(みゆき)して、そこで二年間、天照大御神をお祀りした。

市守の宮に比定されるのが、名張市に鎮座する「宇流冨志禰神社」と「蛭子神社」だ。
篠畑神社から先に訪れたのは名張川沿いにある「蛭子神社」である。
境内にある拝殿の上の額(下の額参照)にみられる。

「蛭子神社」から約200mの近くに「宇流冨志禰神社」の最初の鳥居がある。
この地域はまだ紅葉が残っていて綺麗なもみじが参道を華やかに飾っていた。


10 伊賀国 伊賀穴穂の宮 4年 (伊賀市上神戸)【神戸神社 】

今日最後のお参りだ。
日も傾き始めている。影も長く、景色も少し赤っぽい。

六十六年己丑、同じ国の穴穂宮に遷りたまひ、四年を積(へ)て奉る。その時、伊賀の国造(くにのみやつこ)、篦山(ふぢやま)の戸(へ)、葛(かづら)山の戸(へ)、並びに地口の御田、細鱗魚(あゆ)取る淵、梁作(やなさ)す瀬等(とも)を進(たてまつ)る。朝(あした)の御気(みけ)、夕(ゆふべ)の御気に供へ進(たてまつ)る。

すぐ裏の木津川で、やなさ漁で鮎を取り、朝夕の食事に献上したのだろう。
この地で四年間のお祀りである。


天之眞奈井


神戸神社の裏にある木津川の流れ


(伊賀国 穴穂宮)~伊賀国 敢都美恵宮~ 淡海国 甲可日雲宮( 2022年1月29日)

前回の旅は去年( 2021年12月5日)の伊賀穴穂の宮の比定地神戸神社で終えた。
今回の旅は伊賀国 敢都美恵宮から淡海国 甲可日雲宮まで巡るつもりであるが、やはりスタートは前回の最終地点から始めることにした。
曇りの中、自宅から165号線(初瀬街道)で青山高原を越え、神戸神社に着いたのは10時前であった。
今日一日の旅の無事を祈った。

神戸神社の大きな鳥居を潜り北に向かった。

暫く進み木津川を越えるため右にターンすると、何かの視線を感じたのである。「Oh! No!」と両手を広げながら車の中を覗き込んでくる。口がとれ、目が一つとれ残りの目に何か狂気を感じた。「案山子に罪はないけれど、人の不安をあぶりだす見事な案山子だなあ」と感心しながら、慌てて立ち去ったのである。


11 伊賀国 敢都美恵の宮(あえつみえのみや) 2年 (伊賀市柘植町)【都美恵神社】

活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)の即位二年癸巳、伊賀の国の敢都美恵宮(あへつみえのみや)に遷りたまひ、二年斎き奉る。
第十一代の垂仁(すいにん)天皇が、御即位されて二年目の癸巳(みずのとみ)年、倭姫命は、伊賀の「敢都美恵宮」に遷り、二年間、天照大御神さまをお祀りした。


敢都美恵の宮(あえつみえのみや)遺跡

倭姫命一行は、三重県の名張市の名張川沿いの「穴穂宮(あなほのみや)」から、北東へ。柘植川に沿って進んでいく。柘植というところに到着し、柘植川で禊をし心身を清めてから、「敢都美恵宮」に、御鏡と御剣をお祀りした。(伊賀氏柘植町の伝説)
(敢都美恵の宮遺跡は都美恵神社から徒歩5・6分の所にある。)


史跡 雨龍神社跡

ある日、五大夫の武日命に白衣の老人が「この御宮を立てたのはどなたですか」と話かけてきたので、皇女の倭姫命と答えると老人は七色に輝く龍神に変わって姿を消したという。それから禊をしている倭姫命を見守り、日照りの時は雨を呼び、村の護り神として雨龍神社に祀られるようになったそうな。(下記地図の左下に史跡雨龍神社跡の碑が建てられている。) この平穏な暮らしで 二年間天照大御神をお祀りしたが、大鹿島命が「淡海の方へ行きなさい」というお告げを聞いたことで、次なる巡幸地を目指したそうな。
我々も次の淡海国 甲可日雲の宮を目指したのである。


途中、お腹がすいたので外観も内装もおしゃれなお店に入った(Kiranah 柘植)。
ワンプレートではあるがとても美味しいランチであった。
道路の傍とはいうものの、周囲が田圃だらけのこの店で何故営業が成り立つのか、思い切ってオーナーに聞いてみた。
ニコリと笑ながら「インスタグラムです。女性の方が多く来てもらえます。」との答えであった。
時代に取り残された老兵!消え去るのみ!

12 淡海国 甲可日雲の宮 4年【垂水頓宮跡(土山)、日雲神社(土山)、土山村田神社(土山)、若宮神社(土山) 上六所神社(土山)、高宮神社(信楽町多羅尾)、日雲神社(信楽町牧)他】

垂仁天皇が即位して4年目の6月の晦日のとき、倭姫命は淡海の国の甲可の日雲の宮に遷り、そこで天照大御神を4年間祀った。
その時、淡海の国造は、稲田を身上した。
この甲可日雲の宮の比定地はことのほか多い。どの書物も一番の比定地は垂水頓宮である。
史跡雨龍神社跡からカーナビを使い垂水頓宮を目指したが、垂水頓宮の裏に案内され日雲神社(土山)が直ぐ近くにあった。
その日雲神社をお参りした後→垂水頓宮跡→田村神社→若宮神社の順に比定地をお参りをしたのである。

日雲神社(土山)

垂水頓宮跡(土山)

田村神社(土山)

若宮神社(土山)