御巡幸地(5)


淡海国 坂田の宮へ (2022/05/04)


倭姫の御巡幸はあと以下の4ヶ所を残すのみとなった。
13 淡海国 坂田の宮 2年 (米原市近江町)【坂田神明宮】
14 美濃国 伊久良賀の宮 4年 (瑞穂市居倉)【天神神社 】
15 尾張国 中嶋の宮 ー (一宮市今伊勢町)【酒見神社・他 】
16 伊勢国 桑名野代の宮 4年 (桑名市多度町)【野志里神社】

今回は上記4ヶ所を参拝し、倭姫の御巡幸まる一周を完成するはずであった。
朝7時半に出発し、まず前回訪れた淡海国 甲可日雲の宮から御巡幸開始ということで、まだお参りしていない比定地の日雲神社(信楽町牧)から出発とした。
しかし、勘違いで道を選択し損ねて、回り道を選択してしまったことに気が付いたのは、もはや午前9時を過ぎていた。
直接目的地「坂田の宮」を目指そうと気を取り直した。
倭姫は御巡幸の先で村人との関係を大切にされ、朝廷から籾だねを取り寄せ育てる助けをしていたらしい。
それに答えて、甲可日雲の宮の村人は丸木舟を三隻を造り、倭姫一行は野洲川をその丸木舟で下って琵琶湖へと行ったようである。
倭姫が船で野洲川を下り琵琶湖に出たという雰囲気に浸ろうと、国道1号から県道27号に乗り換えて、野洲川沿いを走った。
「野洲川歴史公園」で休息し、「野洲川中州親水公園あめんぼう」で野洲川を下る倭姫一行を想像することができた。

野洲川中州親水公園あめんぼうから見た野洲川


琵琶湖のさざなみ街道に出て野洲川河口に架かる中州大橋を渡るとすぐ「鮎家の郷」がある…と思っていたが、どうも違う。施設の周りを車で一周したがやはり違うのである。
駐車場の整理のおじさんに聞いてみると、「かねふくめんたいパークびわ湖」になったとのこと。こうして昔の想い出がガラガラと瓦解していった。
さざなみ街道を北に進み長命寺を経て水ヶ浜という場所で休憩をした。大変風光明媚な所で、近くにはシャーレ水ヶ浜というログハウス風のカフェがあり、若者の長い行列が見えた。SNSでの情報収集能力が推察される。

近江八幡市から彦根市さらに米原市とさざ波街道を北上し、ようやく坂田の宮 の比定地坂田神明宮の一歩手前まで来たときは既に正午である。
いやはや、今日は4ヶ所を参拝するはずであったが、次の宮への時間と帰宅時間を見積もると、この坂田神明宮1ヶ所のみとすることにした。
これから先は余裕のある時間配分で行動ができる…と思うと急に腹がすき、参拝の前に「道の駅近江母の郷」で昼食と決めこんだのである。

13 淡海国 坂田の宮 2年 (米原市近江町)【坂田神明宮】

八年己亥 同じ淡海国の坂田宮に環幸なりまして、二年斎き奉る。時に坂田君等(たち)、地口の田を進る。『倭姫命世紀』
垂仁天皇の御代、八年己亥の年に、倭姫命は、同じ淡海国(近江の国)の「坂田宮(さかたのみや)」に遷り、天照大御神を二年間お祀りした。このとき坂田の君主たちが、よい田を献上した。

倭姫一行の船は琵琶湖から、息長川(おきなががわ)(現在の天野川)へと遡り坂田の地へと入ったのである。

下写真の様に坂田神名宮の境内には北陸本線が南北に走っている。
運よく現代的な車両を納めることができた。
古い歴史と現代との共存が極めて日本的な風景といえる。

しかし、何故淡海国 甲可日雲の宮から坂田の宮に遷宮したのであろうか。
それは、倭姫命の母方のご先祖の地であった。
(詳細はことのは綴り359 と ことのは綴り360を参照)

三島池(比夜又池)
坂田神明宮の参拝を済ませた後、国道21号で醒ヶ井まで行き県道19号経由で三島池まで行った。
三島池はTVの番組「こころ旅」で放映された目的地で伊吹山を背景にした大変美しい池であった。
しかし、現地に行くと、村のために佐々木秀義の乳母「比夜又御前」自ら池に身を投じた哀しい物語がある池だとわかった。(下記写真)
「名にも似ず 心やさしき たをやめ(手弱女:たおやかな 女)の 誓も深く みつる池水」
今も、小雨そぼ降る夜に池のほとりを通ると、池の底から微かな機音が聞こえてくるという。

井之口分水(いのくちぶんすい)
三島池からさらに北へ向かうと姉川の直ぐ近くに「道の駅 伊吹の里」がある。
この近くには井之口分水という農業用水の分配施設があり、下記写真の様にとてもユニークな分配をしている。
今回で3回目の見学で、何回見ても飽きない。

帰宅の時間がきた。
国道365号で関ケ原古戦場を通り国道306号を南下、菰野、亀山を経由し、中勢バイパスを通り無事帰宅をしたのである。

残り3国3宮を目指して (2022/05/08)

残り下記3国3宮を参拝するのみとなった。
14 美濃国 伊久良河の宮 4年 (瑞穂市居倉)【天神神社 】
15 尾張国 中嶋の宮 ー (一宮市今伊勢町)【酒見神社・他 】
16 伊勢国 桑名野代の宮 4年 (桑名市多度町)【野志里神社】
まず前回訪れた淡海国 坂田の宮から出発ということを考えたが、寄り道しないで行くまでに2時間ほどかかるということで、直接美濃国 伊久良河の宮を目指すことにした。
高速で桑名東で降り国道258号を北上するのであるが、何とそこから3~4㎞で伊勢国 桑名野代の宮がある。しかし、倭姫の巡幸通りに行く為に通り過ぎ美濃国 伊久良河の宮を目指した。
左に養老山地を眺め、やがて名神高速道路の下を潜り東海道新幹線の下を潜り、大垣市内に入る。東西南北に発展したとても大きな城下町の印象を受けた。そこから東に向きを変え揖斐川に架かる橋を渡り瑞穂市に入る。水田地帯を走りやがて居倉の地に着いた。
伊久良河の宮 の比定地天神神社の周囲は柿畑があり、何と富有柿発祥の地という石碑が建てられていた。

14 美濃国 伊久良河の宮 4年 (瑞穂市居倉)【天神神社 】

垂仁天皇十年辛丑、美濃の国の伊久良河宮に遷幸なりまして、四年斎奉る。『倭姫命世紀』
垂仁天皇の御代十年、辛丑(かのとうし)の年、倭姫命は、美濃の国の「伊久良河宮(いくらかわのみや)」に遷り、四年間にわたり、天照大御神をお祀りされた。

本殿は比較的こじんまりしているが、全体に彫刻が施されていて存在感があった。宮大工と彫刻家の合作といったところであろうか。
横から見たらシンメトリーではなく、前面が長い。「流れ造り」というらしい。
大変印象深い本殿であった。

古代の祭祀遺跡で天照大御神の「御船代石(みふなしろいし)」と、倭姫命の「御腰懸石(こしかけいし)」と呼ばれる物がある。
周りからは神獣文鏡や勾玉の祭祀遺物が出土されている
奥左は倭姫宮の末社である。

天神神社の参拝が11時頃終わり、近くの道の駅パレットピアおおので昼食やお土産を選んだ。

写真の惣菜パンは全て野菜のトッピングだ。パンの中までたっぷり野菜が詰まっているのには驚いた。
この道の駅は何回でも行ってみたいと思う。

15 尾張国 中嶋の宮 ー (一宮市今伊勢町)【酒見神社・他 】

伊勢国に行く為めの船を調達するためにしばらく滞在した所といわれている。
当時以下の様に尾張の国は美濃の国の影響下にあったとされている。

次に尾張の国の中嶋宮に遷り座しまして、倭姫命国保伎(くにほき)し給ふ。
時に美濃の国造等、舎人市主 地口の御田を進る。
並びに御船を一隻進りき。
同じ美濃の県主、角鏑を作り、御船二隻を進る。
「捧ぐる船は天の曾己立 抱く船は天の御都張」と白して進りき。
采女忍比売、また地口の御田を進る。
かれ、忍比売の子、継ぎて天平瓫八十枚を作り進る。『倭姫命世紀』

倭姫命が尾張の国の中嶋宮に遷ったときに、その地で倭姫命は国を褒め称える行事をした。
美濃の地方官である国造たちが、舎人という国造の家人である市主(いちぬし)と、素晴らしい田を献上した。併せて船も一隻献上した。
同じく美濃の国の地方の行政長官である県主は、「鏑矢(かぶらや)」という、矢を放つと音がする弓矢を作らせた。
「こちらの捧げる船は、天の曾己立(そこたち)のように頑丈で、抱く船は天の御戸張(みとばり)のようにどこまでも進んでいく船です」
と、言って船も二隻献上した。
采女めの忍比売(をしひめ)は、素晴らしい田を献上した。
忍比売の子孫は、仕事を引き継ぎ、「天の平瓫(ひらか):神饌を供えるために使う」を八十枚献上した。

酒見神社は日本初の清酒の醸造地である。
また、境内にある『栄水の井』の浄水のおかげで上記清酒を神に献上できたともいわれている。
それは霊水といわれ、一般に開放されている。


石槽(いわふね) (柵の中には、清酒を造る時に使用された酒槽石が見える。)

神社の関係者が「どこからこられました。」と話しかけてこられた。
我々の倭姫御巡幸の話を聞くと、御親切にも本殿の奥の裏庭に案内をしていただいた。
裏庭に行く途中で、『倭姫命姿見石』を参拝した。
裏庭の奥には『倭姫命社』がある。手前の両脇には小ぶりの社(やしろ)があり、それぞれ地下1メートルに白き酒甕(右側)と黒き酒甕(左側)が埋められていると説明を受けた。
それぞれに参拝をしたのである。
去り際に、酒見神社由緒が記載されている酒見神社案内記なる資料をいただいた。
ありがたい貴重な体験であった。

木曽川・長良川・揖斐川の三川が集まる木曾三川(きそさんせん)に架かる大橋を渡ると、そこは養老山地を真正面にみる多度町の地である。
国道258号を南下すると、すぐ伊勢国桑名野代宮の入口にあたる。
倭姫命一行は、上記のように、中嶋宮へ献上された船に乗ってこの地に来たとされる。
しかし地図を眺めると、当時は、少なくとも木曾三川までは海になっていたのではなかろうか。そうでなければ長良川と揖斐川を陸地で横断するか、もしくは伊勢湾に出て揖斐川を遡るしかない。


16 伊勢国 桑名野代の宮 4年 (桑名市多度町)【野志里神社】

この地で後に側近中の側近になる「大若子命」の初登場!
しかも、伊勢の国の生活・風習を講義する先生役だ。面白い(^^)/
既に、今後の活躍を知っているが故に、どのような顔をして講義したのか興味津々である。

垂仁天皇十四年乙巳年、伊勢の国の桑名の野代宮に環幸なりまして、四年斎き奉る。
時に国造大若子命(おほわくごのみこと)
<一名は大幡主命(おほはたぬしのみこと)>参り相ひ、御共に仕て奉る。
国内(くぬち)の風俗(くにぶり)を白(まを)さしめたまひき。
また、国造建日方命(たけひかたのみこと)参り相ひき。
「汝(いまし)が国の名は何ぞ」と問ひ給ふ。
白(まお)さく、「神風の伊勢の国」と白して、
舎人弟伊尓方命(とねりいろといにかたのみこと)、また地口の神田並びに神戸を進(たてまつ)る。
また大若子命、舎人弟 乙若子命(おとわくごのみこと)を進る。『倭姫命世紀』

垂仁天皇の御代十四年の乙巳(きのとみ)年、倭姫命は伊勢の国の「桑名野代宮(くわなののしろのみや)に遷り、天照大御神さまを四年間お祀りした。

このとき、伊勢の国を治めている国造(くにのみやつこ)の大若子命(おほわくごのみこと)<別の名を大幡主命(おほはたぬしのみこと)>が、お宮に参上してきて、倭姫命のお供としてお仕えすることになった。
そこで、この伊勢の国の暮らしぶりや風習について、倭姫命一行に、お話をした。
またさらに、この地を治めている国造(くにのみやつこ)の建日方命(たけひかたのみこと)も、参上してきた。
このとき、倭姫命が、「あなたの、ここの国の名は何と申しますか?」と、尋ねたところ、建日方命はこう答た。

「はい。神風の伊勢の国でございます」

そして、この建日方命は、自分の弟の伊尓方命(いにかたのみこと)と、さらにご神田と、神戸を献上した。
また、大若子命も、自分の弟の乙若子命(おとわくごのみこと)を、舎人(とねり)として、献上した。

拝殿

本殿


御贄処(みにえどころ)を求めて 2022/05/14

下記”のしあわび作りご見学ー浩宮さまー昭和62年5月31日 国崎町”の記事から(海士潜女神社拝殿に掲示あり)
『倭姫命世紀によると、垂仁天皇26年(皇紀657年)命が伊勢神宮ご鎮座の大儀を終えられ、船で志摩地方沿岸を巡行されたおり、国崎の海岸で海女の漁獲作業を見ながら「この貝は何という貝か」と問いました。「これはあわびと言って大変おいしいですよ」と答えると、命はその貝を賞味してから、「今後、毎年神宮にお供えするように」と申しわたしました。海女は「それでは、生のままでは腐敗しますので、薄く切って乾燥させたうえ、お供えします」と言ったことから、のしあわびの”いわれ”だそうです。』
【そのあわびを献上する海女「おべん」さんと倭姫命のシーン・・・ご覧あれ】



海士潜女(あまかずきめ)神社 (鳥羽市国崎町)


拝殿の中


国崎(くざき)から相差(おうさつ)へ

目的は相差の氏神である神明神社(石神さん)の参拝である。
女性の願いを一つだけ叶えてくれる。』で全国的に有名になってしまった。

国崎の港を後に見て、海岸沿いを進み相差へ向かう


相差海女文化資料館

運よく駐車場に入れた。
ここからは道が狭く、石神さんまで徒歩だそうだ。
母親にとって往復600メートルの距離は根性で歩き切るとは思うが、大事を取って参拝は止めることにした。


ちょっと遅めの昼食で、鳥羽の漣(さざなみ)で海老フライ定食(このときはエビ4尾)と決め込む。
タルタルソースとご飯のお代わりは自由だが、そもそも初めから多いのである。
結局、エビフライは母親2尾、妻1尾のお持ち帰りとなった。
私は目を白黒しながらも完食したため、夕食はお茶漬けオンリーにしてもらったのである。


26 伊勢国 五十鈴の宮 (伊勢市宇治館町)【皇大神宮】

何故三重県に皇大神宮があるのか。
という疑問から始めた倭姫命御巡幸の後追い綴りとして巡ってきた。
今日、内宮を訪れ一応の区切りを付けることとした。
しかし、取りこぼしがあればその都度付け加えることとする。
何故なら一つの宮に複数の比定地がある場合が多くあり、従ってまだ訪れていない比定地が多くある。
楽しみは次から次へと湧いてくる。

今日は7月3日(日)で曇りである。
おかげ横丁の入口に駐車して、おかげ横丁の岩戸屋で生姜糖(しょうがとう)を予約した。
今は柔らかく直ぐ溶ける上品な生姜糖に変貌している。
しかし、中学校や高等学校時代に食べたあの堅過ぎる生姜糖が今は恋しく懐かしい。

宇治橋を渡り、大きな鳥居をくぐると右は正殿方向である。
左は今回初めて行く二つの神社がある。(この歳になるまで参拝していなかった)
一つは、大山祇(おおやまつみ)神社で大山祇神が祭神である。
神路山の入口に坐す山の守り神として祀られている
もう一つは、子安神社で祭神は絶世の美人の木花開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)で猛火の中で出産したということで、子授け・安産・縁結びの神様である。
我々にはもはや子授け・安産・縁結びのすべてにおいてお呼びじゃないが、孫たちの将来の良縁と、少子化対策をきつく祈願してきたのである。


子安神社から同じ道を引っ返し、宇治橋の大鳥居から正宮に向かう玉砂利の道。

♬ 内宮の玉砂利の音(ね)を聴きながらトレンチコートの腕を取る君

内宮には玉砂利神がいるらしい。


五十鈴川の御手洗場で水鳥が水面から飛び立った瞬間である。


瀧祭神(たきまつりのかみ)は五十鈴川と島路川との合流地点にある。
祭神は瀧祭大神(たきまつりのおおかみ)で治水を司る神さまだ。
社殿はなく板垣の向こうに石のみが鎮座している。
五十鈴川は「神宮神田」の水源であり、その治水を司るこの神様に対しては特別に祭典が行われるという。

風日祈宮(かざひのみのみや)は風雨をつかさどる神を祀る内宮別宮である。
元寇の折りに神風を吹かせたということで別宮に昇格したという話もある。
祭神は級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)で国生みの際に、イザナミの息から生まれた風の神様といわれる。

風日祈宮橋に戻り参道を右に暫く行くと、左に御正殿に通じる石段があり、ここから先は撮影禁止である。
皇大神宮で御正殿の祭神は天照大御神である。
また、下記神様がおられるが、すべて直接参拝は不可で御正宮からの遥拝となる。
同じ瑞垣内に於いて、東宝殿には天手力男神、西宝殿には万幡豊秋津姫命が祀られている。
又、板垣内には以下の2神が社殿はなく石畳に祀られている。
興玉神(おきたまのかみ)は猿田彦大神又は大田命の別称か。『神名秘書』
宮比神(みやびのかみ)は宮廻神又は大宮売命又は天鈿女命の別称か。『神名秘書』
屋乃波比伎神(やのはひきのかみ)は神庭守護の神で石畳に祀られている。正宮石階の東側に南向きにご鎮座されている。

皇大神宮の参拝のから天照大御神荒御魂を祀る荒祭宮(あらまつりのみや)を目指す。
途中、神宮神田から収穫した稲を収められている御稲御倉神(みしねのみくらのかみ)を左に迎える。
荒御魂は活動的で積極的な働きをされるということで、これから新しい仕事等に挑むときにお参りする人が多いらしい。
勿論、正殿には穏やかな和魂(にぎたま)が祀られている。


荒祭宮から帰り参道を暫く行くと、左に、四至神(みやのめぐりのかみ)がお祀りされているが、パワースポットとして手をかざす人が必ずいる。
以下伊勢神宮のフェイスブックに掲載された(2018/3/08)内容を以下に転記した。
内宮と外宮の四至神(みやのめぐりのかみ)をご存じですか?四至神は神域の四方を守る神様で、社殿や垣根はなく石畳の上に祀られます。
近年、手をかざす方がいますが、神様をお祀りする場所ですので「二拝、二拍手、一拝」の作法でお参りください。
詳しくはこちらから
https://www.isejingu.or.jp/about/naiku/others.html
http://www.isejingu.or.jp/

右には由貴御倉神(ゆきのみくらのかみ)がある。御贄などを納めた御倉の守り神(由貴御倉神)をお祀りしている。
同じく御酒殿神(みさかどののかみ)がある。御贄に供する神酒(白酒、黒酒、醴酒、清酒の4種)が納められている。
白酒(しろき)、黒酒(くろき)、清酒に関しては、15 尾張国 中嶋の宮 ー (一宮市今伊勢町)【酒見神社】を思い出す。
同時に、日本初の清酒の醸造地でもある

現在の皇大神宮の様子は以上である。
天照大御神が実際この五十鈴宮として定めた様子は『倭姫命世紀』に記載されているが、それは"ことの葉綴り"の助けを借り、時間をかけて以下に記載することする。


[訳]
垂仁天皇の御代、二十六年丁巳(ひのとみ)の十月、甲子(きのえね)の日、倭姫命さまは、天照大御神さまを、いよいよ伊勢の国の度会(わたらい)の五十鈴川の川上へとお遷し申し上げました。

[原文]
垂仁天皇二十六年丁巳(ひのとみ)冬十月甲子(きのえね)、 天照太神を度遇(わたらひ)の五十鈴の河上に遷し奉(まつる)


[訳]
垂仁天皇の御代二十六年、倭姫命(やまとひめのみこと)さまは、大幡主命(おおはたぬしのみこと=大若子命おほわくごのみこと)をはじめ、たくさんの物部の臣下の人たち、ほかにも大勢の人たちをお集めになり、こう仰せになられました。
「五十鈴川の川上の周辺の、荒々しい草や木の根っこを刈り取り除き、大きな石、小石の凹凸を平らに造成します。 そして、遠くに見える山、近い山の大きな山あい、小さな山あいに立っている木々を、斎部(いんべ)氏が、清浄に潔斎し浄めた神聖な斧で伐り採ります。 伐り採った木の根元と、先端の枝葉のところは、山の神に奉ってお祭り申し上げます。 私たちは、伐り採った木の中間の部分を持ち出してきて、お清めされた神聖なる鋤(すき)で、聖なる柱を建てるのです。 <この柱は、天の御柱(あめのみはしら)、または心(しん)の御柱といわれます>
よいですか? 天上の高天原に届くがごとくに、千木(ちぎ)を高く造るのです。 一方は、この大地の地中深くになる岩に、皇祖神(すめおほみかみ)の立派な御殿の、太い柱を広く敷き建てます。 その立派な御殿に、天照大御神さまの、その荒御魂(あらみたま)の宮と、和魂(にぎみたま)の宮として、お鎮め申しあげ奉るお宮をお造り申し上げるのです」

[原文]
今(こ)の歳、倭姫命、大幡主命(おおはたぬしのみこと)、物部八十友諸(もののべのやそとものを)の人等(たち)に詔りたまはく、 「五十鈴の原の荒草(あらくさ)木根(このね)を苅(か)り掃(はら)ひ、大石小石を造り平(なら)して、遠山近山の大峡(おほかひ)小峡(こかひ)に立つ材(き)を、斎部(いむべ)の斎斧(いみおの)を以ちて伐り採りて、本末(もとすゑ)をば山祇(やまつつみ)に祭り奉りて、中間(なかさだ)を持井で来りて、斎鉏(いみすき)を以て斎柱立て<一(また)の名は天御柱(あめのみはしら)。一(また)の名は心御柱(しんのみはしら)>、高天原に千木(ちぎ)高知り、下都磐根(したついわね)に大宮柱(おほみやばしら)広敷(ひろ)しき立てて、天照太神並びに荒魂宮(あらたまのみや)・和魂宮(にぎみたまのみや)と鎮め坐(ま)し奉る。」と