鎮魂歌(義兄 かぁにい)


なあぁ!そうだろう かぁにい…

義兄 早川〇〇は平成28年12月14日(水)に59歳で他界した。あれほど頑張ったのに。
神式にて12月17日(金)前夜式、翌日に葬儀であった。
両式合わせ、739名の参列者があった。

前夜式、葬儀の弔問者の中には、泣き崩れる方も何人もおられ、どうも兄に面倒をかけた生徒のようだ。兄は隠れ金八先生であったかもしれない。
私はこの時ほど、先生という職業を、尊敬したことはなかった。
そういう意味では、一生分の人生を生きたのではないだろうか。

告別式で友人代表(三重県退職校長会伊勢支部)が弔辞として、真っ直ぐ前を向き、何も見ないで語りかけた。

『早川先生、こんなに急いで逝ってしまって本当に悲しいです。残念です。
治療に専念される為に、早く学校長を退かれただけに、もっと一緒にいたかった。もっとお話もしたかったです。
しかし、奥様やお子様と楽しい日々を過ごそうと思われてみえたことを思うと先生自身が一番残念でしょう。
先生にお世話になった私たちも悲しみでいっぱいです。
先生、病魔と本当によく闘われましたね。今はゆっくりお休みください。
先生は、昭和54年3月、神奈川大学経済学部を卒業と同時に鈴鹿市立大木中学校で教員としてのスタートを切られました。
社会科を中心にバレーや剣道を指導されて多くの教え子に親しまれました。
3年後の昭和57年には伊勢市立港中学校へ転任され、以来、伊勢市の教育向上に情熱を持って献身的にご尽力をいただきました。
6年後の昭和63年4月には、伊勢市立厚生中学校へ転任、5年後には香港の日本人学校へ赴任されて、海外在住の子どもたちへの教育にも専念いただきました。
3年後には、伊勢市立倉田山中学校へお戻りになり、7年後の平成14年には伊勢市適応指導教室に移られました。
平成16年には伊勢市教育委員会体育保険課課長にお着きになり、行政への道を歩み始められました。
そして、翌年には、学校教育課長補佐になられました。
平成20年4月に、伊勢市立城田中学校長を2年間務められた後、平成25年、学校教育課長にお着きになり、学校現場の中枢として、教育行政にご尽力いただきました。
平成27年4月、伊勢市立倉田山中学校に戻られ、学校長として地域や家庭との連携を図り、堅実にして、愛情豊かな学校経営に当られました。
教職に就かれてから37年間、現場での教育活動のみならず、教育行政面でも大きな成果をあげていただきました。
残された私たちは、先生のご功績を讃えるとともに、先生の志を大事にして、伊勢の教育と地域の更なる発展の為に更なる努力を重ねていきます。
どうかこれまでと同様、私たちを温かい目で見守ってください。
今は、先生の御霊の安らかに瞑されんこと、ご遺族の皆様に幸多からんことをお祈り申し上げ、お別れの言葉とします。

 平成28年12月17日
 友人代表
 三重県退職校長会伊勢支部
 〇〇 〇〇 』


いつも兄の笑顔が思い出される。兄は真剣な表情はするものの、怒るといった態度は一度もなく、いつも周りに気配りをする姿があった。
当時、赴任していた香港に私たち家族を、招待してもらったり、大切にしていたゴルフセットを息子にプレゼントしてもらったりと、気配り全開であった。

それにしても、残した家族と親が、どれほど気がかりだったろうか。
兄の「早く逝って、ごめんな、ごめんな。」の声が聞こえる。
兄の「妹を頼む、頼む。」の声も聞こえる。

親から何度も聞いたと思うが、弟が平成30年4月1日から校長になったよ。生涯現役を掲げていた弟が、あとを継いだね。
そして、「たばこの吸い過ぎだ。」と耳元で囁いてね。


なあぁ! そうだろう  かぁにい ・・・

(更新日2025/12/09)【鎮魂歌(義兄 かぁにい) 】 に追加
10年祭 伊勢祖霊社 ➡ お墓 2025/12/07 

祖霊社とお墓のお勤め、そして会食が終わり、早川家で集合写真を撮った。
それぞれの家族を見送り、最後に私と妻が車に乗り込み車を発進させた。
後ろを見ると、角を曲がり姿が見えなくなるまで、93歳になる義父は手を振っていた。

追記
かぁにい!
弟が平成30年4月1日校長になり、定年退職後穂高公民館長になり、3年前から松本大学生涯学習概論の非常勤講師をしていることは、お父さんの報告で知っているだろう。
この度、その活躍が地元の新聞に掲載されたよ。
応援たのむよ。!