その1
二人で出かけるのは何十年ぶりであろうか。
町並みや集落について、幅広いまた深い知見のある案内で、南伊勢町の「竈(かま)」の名がつく集落を案内してもらった。「竈」から「竈」への途中の字名(集落)も全て頭に入っており、景色の素晴らしい昼食場所も決めてもらってあり、車の運転も安全に全行程を引き受けていただいた。
すべてが心地よく、安心できたのである。
彼は早稲田大学法学部を卒業し、長年津市で測量会社の社長職を務めながら、その測量に自ら赴き、その土地の町並みや集落を歩き回ったという。おそらくその時に、町並みや集落に惹かれていったのであろう。
「竈」巡りを通して、その魅力の一端を感じたのである。
南伊勢町の東半には地名に「竈」の付く地区が7つある。西から新桑〈さらくわ〉竈、棚橋竈、栃木(とちのき)竈、小方竈、大方竈、道行竈、相賀(おうか)竈だ。昔は赤崎竈があったが津波で流されたそうだ。 竈は昔、製塩を業としていた名残といわれている。
また、平清盛の孫に当たる維盛が十津川〈和歌山県)に逃れ、その末裔がこの土地に移り住み、製塩業を営み、さらに製塩業から離れ今日に至ったとされている。
新桑竈
累々と石垣が続く
八ヶ竈八幡神社と竈方祭
隔年、正月5日には八つの集落(現在は七つ)八ヶ竈の祭りとして「竈方祭」がある。昔は八ヶ竈の住民が集まり、弓引き競技会などが行われ、大変な賑わいだったそうだが、現在は大方竈の八幡神社の例祭としてひっそり行われている。
ここは壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人達が隠れ住んだ所で、この八幡宮も地元の人たちから「平家の宮さん」と呼ばれている。
ネットでは、集落や町並みに惹かれる方々の報告が沢山あるが、概ね以下の趣旨であろう。
①歴史、自然、生活によって創り出された集落や町並みにの景観に惹かれる一方、その美しさを日本中に知って頂きたい。
②戦後の新建材・新工法による画一的な町づくりにより、歴史的景観がものすごいスピードで失われているのを目の当たりにして、町並み保護区の指定を願い出る活動も重要な役目であると認識している。
町並みWeb集団 いらかぐみ
「竈」巡りの数日後、メールで質問をしたところ、すでに山形県の集落を訪ねていた。神出鬼没・縦横無尽である。
撮りためた写真は、既に80万枚を超しているという。
下記掲載の地図は広島県を中心として、今まで行った集落や行きたい集落が〇印なっている。
写真を整理していくよりも、これから撮りためることの方が多いのではないかと心配する。
いずれにしても、宝の山を整理して、いつか公開をしてほしいと思う。
これからは、二人で集落を訪れたら、その経過をこのホームページに刻んでいこうと思う。
これからが楽しみである。
その2
何度も家に来てもらって、訪れた集落の話に耳を傾ける。
桜の満開の声がちらほらと聞こえてきた。
君ケ野ダムの桜を目指して、彼の車と運転で出発をした。
すでに令和の元号が決まり、竈巡り以来の外出である。
しかし、彼の万葉集の知見が溢れ始めた。
情熱的な万葉集の解説で有名であった文学博士であり文化功労者の犬養 孝(いぬかい たかし)をご存じであろうか。
その彼の下に集まった万葉集を語る熱い集団がある。
その集団は万葉集に詠われている地域を巡るのであるが、それに誘われたのだ。
その結果、万葉集が詠われた伊勢地域の担当になり案内をしたようだ。
まさに、君ケ野ダムに行く途中に、その地があったのだ。
その地は白山の川口という所だ。
背景は藤原広嗣の乱(740)にさかのぼる。
9月 3日奈良時代に起きた内乱で、藤原広嗣が政権への不満から九州の大宰府で挙兵したが、官軍によって2ヶ月で鎮圧された。
その乱が勃発したとき、10月26日、聖武天皇は、「朕意フ所有ルニヨリテ、シバラク関東ニ行カムトス」と勅し、
29日、伊勢方面へと旅立ったのである。
その行幸は、都祁→名張→阿保→河口→一志→赤坂→思泥の崎→朝明→桑名→多芸→不破→横川→犬上→蒲生→野洲→粟津→玉井→山背の久邇。
上記行幸の地に河口がある。河口の宮に着いたのは、11月 2日。
この日、広嗣討伐の朗報が、大将軍から届いた。
天皇は、河口に10日間滞在した。
その時、読んだ家持の歌が万葉集に記載されている。
雑歌,作者:大伴家持,羈旅,行幸従駕,聖武天皇,伊勢,三重,天平12年10月,望郷
[題詞]十二年庚辰冬十月依<大>宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時河口行宮内舎人大伴宿祢家持作歌一首
万葉仮名:河口之 野邊尓廬而 夜乃歴者 妹之手本師 所念鴨
河口の 野辺に廬りて 夜の経れば 妹が手本し 思ほゆるかも
(かはぐちの のへにいほりて よのふれば いもがたもとし おもほゆるかも)
現 代 訳 :河口の野のほとりに仮の宿りをとっていると、夜が更けるにつれて妻の手枕が思い出される
旅の歌には、旅の安全を願うパターンがあるという。
地名(河口)を呼び、その地の地霊に挨拶して、また、望郷をうたい(妻の手枕が思い出される)、無事に我が魂を故郷に帰らせたいと願かけするらしい。
まるで発射場(河口)から魂を乗せ望郷を燃料として故郷に向かうロケットのようである。
しかし、わずか二か月の乱であったが、その影響は大きかったのである。
・時の天皇の聖武天皇はこれを期に遷都を繰り返す
・国分寺建立のきっかけとなる
・藤原の式家が衰退し、南家が栄える
以上の様に、一つの頓宮と万葉集の歌とが結びつく事によって、その当時の出来事に、その当時に生きた人々の思いを乗せて、その時代に行ったようにありありと感じられることは、何と不思議なことであろうか。
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聖武天皇行宮址の石碑
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東光山医王寺と並んで頓宮跡がある
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頓宮跡と医王寺を望む
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万葉歌碑
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河口頓宮跡
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河口の満開の桜
河口を後にして、しばらくすると君ケ野ダムの桜が目に入った。
四日後の4月7日(日)に桜まつりだ。
まだ五分咲きである。しかも今日は寒い。
桜をじっくりと見る余裕もなく、次の目的地へと向かった。君ケ野ダムの奥には水路ダム発電をしているが、その水路の測量と山中神社へ向かう新設の道路は彼の会社も測量に参加していたそうだ。
室生寺へ向かったが、そこは桜がまだ開いておらず、寒さも身にしみる。防寒もしていないので通り過ぎる。
今日の朝は『こころ旅』というNHKの番組を見てきた。「出発地点が天神社」で「ゴールが長谷寺」の自転車の旅である。
そこの天神社の雰囲気がとてもよいとの感想を車中で彼に伝えた。
長谷寺の門前町をゆっくり進み、長谷寺を巻いて北に向かった。テレビ番組でのルート(7km)の逆ルートであった。
天神社に着いた頃には暖かくなり、下にその時の写真を掲載する。
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小夫天神社の登り口にて
彼は祖父とこの神社を訪れたようだ
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神殿への登り口
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中殿(天照皇大神、大来皇女命)
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樹齢千五百年の欅の木
老木の語る歴史を聴きたいものである
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御祭神および行事の案内板
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由緒書きの碑
彼に境内にある由緒書きの碑(上写真参照)の前で多くを教えてもらう。
「社伝 倭笠縫邑 泊瀬斎宮 旧跡伝承地
往昔 小夫郷は倭笠縫邑と称せられ 当天神社 天照皇大神宮御鎮座は 第十代崇神天皇即位六年秋九月二十三日 神人分離の一大改革により 皇女豊鍬入姫命が皇祖を奉待し給うた最初の霊跡であり 当神社は斎宮山と称し 第四十代天武天皇即位二年夏四月大来皇女命化粧川で禊され 宮を泊瀬斎宮と為し 皇祖天照皇大神を奉斎せられ元伊勢として今日に伝えられている」
この碑には2つの時代が違う記述が混じっている。一つは「第十代崇神天皇の神人分離の一大改革により皇女豊鍬入姫命が皇祖を奉待し給うた最初の霊跡(元伊勢)であること。」
もう一つは「第四十代天武天皇の御代において初代の斎王である大来皇女(当時十三歳)が化粧川で禊され 宮を泊瀬斎宮と為したこと。」である。
斎王として過ごす大来皇女や丹波、吉備、紀伊の各地を巡る皇女豊鍬入姫及び、宇陀、伊賀、近江、美濃、鈴鹿、伊勢の各地を巡る倭姫はいずれも長期にわたり少女期を過ごし、その身を神に捧げたのである。
天神社から三陵墓を訪れ、針インターから帰路に着くということになった。
針インターと聞いて頭で地図が繋がり、逆に三陵墓を思い出した。
以前、三重県内の有名な水分(みくまり)神社を訪れるという趣旨で旅を楽しんでいたのである。
2008年10月12日(土)、都祁(つげ)水分神社を含む「都祁村の歩きマップ」を現地で手に入れ、偶然そのコースに三陵墓が入っていたのである。
三陵墓を再度訪れることができ、その当時を懐かしく思い出された。
今日も大事な時間を頂いた。車も出してもらい、運転もしてもらった。感謝である。
「ちょっと足を伸ばせば、歴史的価値のある場所がたくさんある。これは大変幸せなことと思ったほうがよい。」と彼はいう。本当にそう思う。
今、この旅の記録をホームページに残す途中である。
一方今頃、彼は高校時代の卒業クラスの仲良し組数名と、岩船寺から浄瑠璃寺に至る野仏を見て回って説明をしているだろう。ひょっとすると、当尾石仏群・大門仏谷の如来形大磨崖仏まで足を延ばしているかも知れない。
私にしても、なつかしさ満載のコースである。彼は引っ張りだこで、忙しいのだ。
その3
彼も自治会長の役目が回ってきた。担当世帯数が私の地区の10倍あり、大変だと想像がつく。彼は顧問職を離れ、今は測量のアルバイトに奥さんの実家の田畑の世話も加わり、忙しい毎日を過ごしているようである。その合間で、桁はずれの集落巡りにいそしんでいるのだ。
お互い近況を話し合ったあと、奈良の円成寺辺りでまで出かけたいと私は提案した。その瞬間、彼は明確なルートが即浮かんだのであろうと、あとで理解をした。
久居地区を抜け、国道163号線の長野峠に向かった。完成した長野トンネルも彼の会社が四分の一測量をしたそうだ。電力会社や行政とのやり取りなど社長職としての視点で語る話は別世界であった。
「笠置橋」を渡り、対向が困難な道を真っ直ぐ、ドン付きの摩崖仏を右に、しばらくすると柳生の里に入った。報徳禅寺(柳生十兵衛など柳生一族の菩提寺)を左手に見ながら、「地蔵を見に行こうか」と車を降りて細い道をしばらく歩くと(実は柳生街道であった)疱瘡地蔵(1319年)があった。柳生徳政令(1428年)の記述のある地蔵さんである。車にもどり山を迂回すると、先ほどの柳生街道につながる場所に来る。そこには南明寺という古刹があり、平安時代や鎌倉時代の仏が安置されていた。それから大柳生経て、円成寺に到着した。多宝塔から新しく『相應殿』に安置された大日如来坐像(国宝)がある。運慶25歳頃の作品で、この像が第一目的であった。そこから峠の茶屋に行き、春日山原始林に突き当たったのである。そこから引き返し、柳生街道からは離れ、山添村の二体の摩崖仏を見て名阪国道の山添ICから帰路となった。振り返ってみると、柳生街道を中心に案内してくれていたのである。彼の案内は必ず一連のまとまりがあるのだ。
柳生街道という名前からは江戸時代のイメージがある。しかし点在する建物・仏像・石仏は鎌倉、南北朝のような古い時代のもので、それが時代を経て存在しているのである。山添村の不動明王摩崖仏や法楽地蔵立像も年代からそういう存在であり、それが何故そこにあるのか、その不思議さに浪漫を感じる一日であった。
ここらの知見は?という問いに、大学生の帰省中にだそうだ。その後、おそらくは測量の仕事の合間にであろう。本日の昼食もコンビニのパンと持参のお茶である。いかに集落探訪に集中し、お金と時間を節約するか、長年身に着いた習慣であろう。
とても敵うものではない。
その4
コロナ禍で周囲に遠慮しながら、久々に会うことが出来た。
自治会長の忙しさに、国勢調査員も兼ねて大変そうである。
今回の昼食は多気町の丹生大師の近くにある"まめや"を紹介した。
まだ食べたことがないということなのでここに決定である。
その地域は、立梅用水として全国的に有名であり、世界灌漑施設遺産の一つである。
彼は以前に立梅用水の測量をしたそうである。
用水路は立梅用水土地改良区が管理しており、土地改良区繋がりで妻もよく知っている。
かつて、その関係で【にう農村応援隊】に夫婦で行事に参加したこともあった。あじさいの草取り・施肥・補植を行ったことを思い出したのである。
"まめや"では、創業以来の女将さんに、バイキング形式でのコロナ対策をみっちりと説明して頂いた。
食事の後、ゆっくり立梅用水に沿って近くの丹生水銀鉱跡まで散歩をした。
その後いつものように、お任せの帰り道である。
くねくねと街の中を走り、気が付けば立梅用水開削者の西村彦左衛門翁の旧宅跡(敷地内に立梅用水土地改良区)前を通る。
(この後は、【みえの歴史街道】のウォーキングマップを参照しながら記述したものである。この地図はいにしえの街道を道標、常夜灯、神社仏閣城址、地蔵、句碑を紹介しながら街道を完全に辿れる優れモノである。
それを参照し、グーグルマップとストリートビューで確認しながら、家に居ながら旅の再現ができた。)
西村彦左衛門翁の旧宅跡は前の道路が和歌山別街道であり、多気町丹生集落から櫛田川沿いに南下し、多気町古江集落から多気町朝柄集落を通り桜峠に至る。桜峠は測量をしている仲間が落ち合って昼飯を食べる所であったという。
それから和歌山街道(国道166号)の粥見に突き当たり松阪方面に進み和歌山街道の横野から北西方面の伊勢本街道(国道368号)へ入る。
奈良方面から伊勢へ向かうための近道で伊勢本街道のこの地域は櫃坂(ひっさか)・飼坂・鞍取坂と恐れられた難所といわれている。その狭い道を逆方向へ車で登っていく。昼なお暗き道である。
暫くすると櫃坂峠についた。峠は古くは宿場街であり、旅籠の名前が並べられている札が掲示されている。
出会いがしらの人に話を聞いた。 この周囲の地主さんだそうで、時間ができる度にこの地に来て桜を植え育てているそうである。5年後には桜の名所にしたいそうだ。"この歳になると10年先の話は出来ないが、出来るのはせいぜい5年先の事ぐらいかな"と印象深い言葉を残し、軽トラックで去っていった。
この峠もかつて測量仲間と落ち合って昼食を食べた場所だそうだ。
それから立川沿いに国道368号と伊勢本街道と交差し、オフロードランド過ぎから国道と別れ、羊羹で有名な『東屋』を通りしばらく集落を行く。
その集落の各家の玄関には中から照らし出される屋号を記したとおもわれる行燈が置かれている。
その集落を過ぎる時、伊勢本街道と別れ、八手俣川沿いに北畠神社の前を通り、県道30号から県道43号へと乗り換える。
美杉町下之川の仲山神社を遠くに見て集落を通り、八手俣川と別れ八頭山トンネルを通り一志町波瀬から久居へと帰ったのである。
街道は集落沿いであるため、道は狭く、集落と集落とを繋ぐ所が国道と街道と重なる所が多い。
この街道マップとグーグルマップとストリートビューがあれば、手軽に街道を辿る楽しい旅が出来るはずである。
しかし、友人は国土地理院の地図から街道を落とし込んだようである。
イザベラバードの歩いた街道も歩いたことがあるようである。レベルが違い過ぎる。
私のような素人はこれで十分と思う。
一度は三重県の街道をゆっくりと楽しみたいと思うのである。
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まめや
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丹生水銀坑道まで散歩
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立梅用水
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丹生水銀坑道入口
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水銀製錬装置
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峠には多くの旅籠があった
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5年後の桜が楽しみである
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屋号の入った行燈?