日本の未来

この十年での周囲の変わり方は日本の変わり方でもある
日本人は日本の未来をどの様にしたいのだろうか


ネットから拾った記事を下記に掲載する。


今回は、フランス最古の新聞社であるフィガロ紙が投稿した、
「なぜ日本が国際化の中で、唯一独自性を守れているのか」という記事から。

・この世界の偉大なドグマであるグローバリゼーションを拒否しながら、世界経済の三大国家の一角に位置する国が存在する。
そう言われて、あなたは信じる事ができるだろうか!
しかしその国は存在する。日本だ。

・日本は2050年までに今より数千万単位で人口が減少し、労働者の40パーセントは退職することとなる。
この状況ではどのOECD加盟国も、移民の受け入れ、女性への市場開放、労働生産性の向上など、リベラル的な対処法を受け入れるだろう。
それでも日本は、グローバル化に抵抗しているのだ。

・移民の受け入れや女性の管理職が少ない点、労働生産性が相対的に低い点は、日本の文化や伝統の側面を考慮しなければいけないだろう。
移民が増えれば国に必要なバランスや調和が崩れ、伝統を失うリスクがある。
女性管理職を増やせば、「"主人"」と「"家内"」のバランスが崩れる。
労働生産性は、労働者の地位向上によって解決する問題だろう。

・グローバル化に対する抵抗は、日本を不利にはしていない。
今でも日本は世界第3位の経済大国なのだ。
リベラルのドクサ(臆説)からすれば、これは奇跡的な事だろう。

・今世界には二つの社会モデルがあると言える。
1つはリベラルが主張するように、多様で個人を解放した社会。
そしてもう1つは、歴史ある文化や民族の均質性に誇りを与える、自分たちのアイデンティティを大事にする社会である。

・おそらく日本はこの戦いに負け、リベラル派のドクサが、つまりグローバリゼーションが歴史に刻まれることになるだろう。
しかし抵抗する日本の姿は、「可能性の国」であることも証明している。
日本は確かに、世界初のグローバリゼーションの「実験室」なのだ。

以上です。
フランスは今まさに移民問題などに直面していることもあり、
日本の社会に理想を見出すフランス人は決して少なくないようでした。


フィガロ紙のいうグローバリゼーションの「多様で個人を解放した社会」とは何なのか。
個人を開放するということは、他との繋がりを小さくし、個人としての活動を最大化していくことだとしたら、祖国を容易に離れ、自分を最大化してくれる国に移動することは、個人として何の問題もないと考えるであろう。
また、フランスやドイツのように「多様化」という意識により導き出した概念を主義とする国であれば、移民を含む異文化を容易に受け入れるであろう。
「多様化」を、個人を開放した多様な民族同士が一緒に生きるということであれば、かつて長い歴史を背負ってきた文化はミニマムになり、新しく生まれる文化は世界中、均一的な言わば「一様化」された文化が生まれことになる。比較できないものを文化と呼ぶことには疑問があるが。
また、個人の努力で勝ち得たものをより評価してくれる組織に移動することも当然と考える社会であり、個人をマクシマムし、周囲の人や自然の関わりを限りなくミニマムにしていく社会である。従って貧富の差や自己主張も当然容認される社会であろう。以上がフィガロ紙の言う「多様で個人を開放するという社会」であろう。

以上の世界、「多様で個人を解放した社会」を目指すことが、グローバリゼーションの核心である。

「多様で個人を解放した社会」の自己紹介をするとしたら、「私は努力をして〇〇をしてきました。」と言う社会である。
一方、「皆さんのお蔭で、私は〇〇をさせていただきました。」と言う自己紹介をする社会もある。みんながいて私がいる。「他者への敬意」が生きている世界であろう。そこには個人を開放するというのではなく、みんなの中の一個人という感覚の中に生きている。みんなで一緒に生きていく。おそらく今も日本を代表する日本人の感覚であろう。日本人の言う「みんな」は「自然も含んだみんな」であることを申し添える。
フィガロ紙のいう「歴史ある文化や民族の均質性に誇りを与える、 自分たちのアイデンティティを大事にする社会」である。

この記事には、日本の未来は二つの社会モデル上の闘争の結果、グローバル化に抵抗するも、結局グローバリゼーションが歴史に刻まれると予想している。ようするに、日本はグローバリゼーションに負けると予想している。
しかし同時に、「可能性の国」とも世界初の「実験室」とも言っている。日本がグローバリゼーションに勝か負けるかの世界が注目する「実験室」になっているというのである。
ネット上で、西洋諸国では、日本がこのまま変わらずにいてほしいと願う声がこともなく多い。グローバリゼーションを強力に推し進めた、ドイツやフランスでも、グローバル化よる自国の歴史、文化、アイデンティティに危機を感じ取り、また移民の犯罪の増加や移民との対立などが増加し、民衆のまた政治的にも、反対勢力の拡大を招いている。

意識により紡いだ概念、例えば「多様化」「平等」「人道」などは、人間しかできない「意識を組み立てた産物」で、逆にその産物(例えば「多様化」など)に世界は振り回されている。個人の解放という何事も人間を中心に「生きていく」という「人間中心主義」的発想は、人間と自然との乖離がますます大きくなって、環境問題ひとつ解決できない。なぜなら、環境を人間の外に置いた議論は「環境問題」ではなく「人間問題」ではないか。環境を語る資格がまず疑われる。
緑豊かな山のあちこちに、太陽光発電のパネルが突然現れる。「自然エネルギー」という心地よい美名のもとに、二束三文の山が金になり、パネルを作れば金になり、売電で金になる。金だけではない。人間が排出した二酸化炭素を取り込み酸素にしている木々を切り、同時に山崩れの原因を作り出している。そこに、緑豊かな自然に美や価値を見出す本来の日本人の姿を見い出すことがはたしてできるだろうか。

 小泉八雲、チェンバレン、モース、イザベラバードなど良き日本の理解者が感じたことは、現在の多くの来日者が抱く日本人の「規律」や「他者への敬意」などの言葉とよく一致している。日本は、長い歴史の中で獲得したものであろう。
それは、日本人が古来から苛酷な自然災害と芳醇な自然からの果実を、長きに亘り感覚的所与として研ぎ澄ませて生きてきた中で、「調和しなくては生きていけない」、「共生しなくては立ち向かえない」つまり「信頼がなければ生きていけない」という生活スタイルを編み出し、「規律」「他者への敬意」という言葉・文化・精神も生まれた。よって、その言葉は日本固有の文化であって、この文化が、グローバル化によりどう影響を受けていくかは、それこそフィガロ紙の言う世界初のグローバリゼーションの「実験室」であり、その影響の過程は日本人以外には感じることができない感覚であろう。

なぜなら、フィガロ紙のいう「歴史ある文化や民族の均質性に誇りを与える、 自分たちのアイデンティティを大事にする社会」という言葉には、フィガロ紙が想像している社会であって、自然の中に生きているという核をもつのが日本人であるという前提がすっぽり抜け落ちているため、いわば、日本人以外で適応される言葉であり、同じ言葉で表現されるにしても、決して日本人が感じる感覚ではないと想像できる。
しかし、当の日本人も自分たちの「歴史ある文化や民族の均質性に誇りを与える、 自分たちのアイデンティティを大事にする社会」の内容を明確に語れる日本人なんてほとんどいないだろう。
語れないのが日本人なのだから。なぜなら、「無思想の思想」=「思想がないという思想」であるから、当然考えも及ばない。
ようするに、フィガロ紙のグローバリゼーションの論説は日本というものの核を理解していないものが書き、日本というものの核を明確に語れない日本人が読むことになる。
それが、グローバリゼーションの「実験室」において、どのような作用をもたらすのか分からない。しかしそれが、日本人の最大の弱点かもしれないし、最大の武器になるかもしれない。それも分からない。

残念ながら日本以外の国々のグローバル化はほぼ不可避である。日本だけがそれに対抗できる力がある。グローバリゼーションとは意識により紡いだ概念に従って生きていくことであろう。一方、日本だけは自然と共に生きてきた。いや生きざるをえなかった。日本の先祖は強大な中国文明や西洋文明に支配されずに、日本文化に取り込んできた。しかし巨大な大波、つまりグローバル化が進むとどうなるのか。ここが問われているのである。

大学の教授であり、作家である呉善花(オ・ソンファ)の著書『日本の美風』の最後の文章を引用する。

日本が強固で統一的な中心をつくることなく、長い間独自の総合的な安定を保ち続けてきたのは、深層海流のような歴史的精神の存在なしには考えられないと私は思う。
どの国よりも高き理想をもち、それを世界に高々と掲げ、それにふさわしい世界政策を出し、堂々と突き進んでいくことーそれができる条件が日本にはある。そんなものはないというなら、それはよほど日本を知らない日本人である。

上記の呉善花の語る「深層海流のような歴史的精神の存在」という言葉は小泉八雲の語る

「古風な迷信 素朴な神話 不思議な呪術 これら地表に現れ出た果実の遥かな下で 民族の魂の命根は生々と脈打っている この国の人々の美の感覚も 芸術の才も 剛勇の炎も 忠義の赤誠も 信仰の至情も すべてはこの魂の中に祖父より伝わり 無意識の本能にまで 育まれたものなのだから」

と同様なことを言っているように思う。
確かに、日本の先祖が強大な中国文明や西洋文明に支配されずに、日本文化に取り込んできたように、グローバリゼーションをも同様に日本文化に取り込んでしまう力はきっと日本にはある。しかし、残念ながら、その力を日本人は意識していないし、明確に語ることができない。なぜなら、「思想がないという思想」であるから、当然考えも及ばない。

上記の呉善花の語る「そんなものはないというなら、それはよほど日本を知らない日本人である。」という箇所は日本人としてよろこんではいられない。そんなことは承知の上で言ったのであろう。「日本人よ目覚めてください。‼」という激励叱咤をするために。

棚田や里山が好きだ。かつては、そこで採れるコメが生活を支えていた。そのコメを育てる土壌を育てるのは極めて長い年月がかかる。その近くにはよく手入れされた森や山があり動物と人との共存を可能にしていた。その地の住人(動物)を含めて里山だ。至上の機能美と感覚美だ。
しかし、高齢化で棚田や里山を守ることが難しくなっているが、現在は高齢者がどうにか守っている。それも出来なくなった棚田は耕作放棄地になる。目覚めたNPOが、オーナー制で守っているのが唯一の明るい話である。一方、戦後の高度産業を支えるために、減少の一途をたどる若者たちの大部分がそちらに就く。人口減少の名のもとに、棚田・里山は消えていく。この例のように、日本文化の一つひとつが消えていく・・・かも。

しかし、「多様化」の名のもとに、グローバリゼーションに負けても心配はいらない。
気の遠くなる長い時間はかかるとは思うが、自然という八百萬の神が、いづれ、グローバル化完成後の第二の日本人を日本文化の継承者に育て上げるから。

日本を取り巻く自然という巨大な外圧が存在する限りは、日本は存在し続ける。日本は自然に「生かされている」存在なのだから。

そろそろ結論だ。 『日本文化を伝えていくのが日本人だ。』  ・・・まあ、残念だが、そういうことだ。

思想と宗教を参照