エッセイ


幻想という考え方

100分de名著『共同幻想論』の解説本を読んだ。
解説本の著書は先崎彰容である。
録画を何回も見て、解説本を何回も読み返して、それでも解らない箇所がある。
当たり前である。
吉本隆明の『共同幻想論』そのものに取り組んでいない。
それでも大切な考え方を含んでいると思いまとめることにした。

ー「思想がないという思想」からはみ出た稀な日本人

戦後の思想家吉本隆明は『共同幻想論』という思想書を著した。
日本は破壊された風景や混乱極まる社会から、急速に民主主義へと変貌遂げていく。

養老孟司は著書の中で
「日本人はたいてい無宗教、無思想、無哲学だと主張する。それが「思想がないという思想」だった。
昨日まで鬼畜米英、一億玉砕であっても、今日からは民主主義、マッカーサー万歳で何の問題もなかった。」
と記している。
上記のように、たいていの国民は主義主張の違いなんぞ、何の問題、抵抗もなかった。戦後、ただ生き抜くために一生懸命だったといえる。
しかし軍国少年であった吉本隆明は、そういう日本の民主主義への変わり身の早さを見るにつけ、彼が納得いくようなものではなかった。それ故に、そのような国民との間で苦悩し、国とは何なのか、何が正しいのか、民主主義さえも疑い、考える自分さえも疑う稀な国民だったようである。

『共同幻想論』は全共闘世代の学生に熱狂的に迎え入れられた思想書と聞いている。当時大学での学生運動は激しく、私の高校でさえも、その余波を感じさせる出来事もあった。
しかし『共同幻想論』は難解で、当時の学生も多くの学生が途中で手放したという。

ー先崎彰容 渾身の文章ー

100分de名著『共同幻想論』の最終回である第4回目は、『共同幻想論』を今の社会に適応して論じている。
最後の項【現代に生かすために】は著者の渾身の思いが滲み出ている。一種の気迫を覚えたのである。
その中での最後の一節を記しても許されるであろう。
「政治的立場の左右など関係ないのです。私たちは常に、共同幻想がもつ魔力に惹きつけられやすい存在です。吉本が考える自立した個人とは、一つの情報を信じ一気に凝集するのとは正反対の存在です。私は本書の読者が、どのような生活経験を経て、今、最後の頁を繰られているのかを知りません。しかし大半の皆さんは、吉本が例示したように、恒産をもたず、自らの智恵だけをたよりに店を、生活を維持し、会社組織を維持してきた大衆にちがいありません。それは特段、注目される営みではないものかもしれない。しかし、そのしんどさをことばにしようとした時、私たちは意外にも『共同幻想論』の近くにいるのかもしれない。まさにその時、刹那的な共同体に呑み込まれない個人幻想を、手にしているのです。」

昔と比べるべきもない我々の前にある膨大な情報を前にするとき、この現代社会において自立した個人ならば、この情報こそが我々のいる社会の「共同幻想」と認識でき、またこの刹那的な共同体に呑み込まれない個人幻想を手にしている、と言っているのである。

SNSで文字数の限られた情報が次々とスクリーンに映し出され、我々はその刹那的で膨大な情報を受け取る。その情報により、たいしたバックボーンも知らないまま信じてしまう。それを現代の「共同幻想」だと筆者はいっている。
それに対抗するのが個人幻想で、それを手にいれなければならないという。

(さて、核心に迫って参りました。)

ー個人幻想 (自己幻想)ー

では、個人幻想とは、自立した個人が持つ幻想である、と上記の記述の中にある。
それは、再掲すると「…吉本が考える自立した個人とは、一つの情報を信じ一気に凝集するのとは正反対の存在です。私は本書の読者が、どのような生活経験を経て、今、最後の頁を繰られているのかを知りません。しかし大半の皆さんは、吉本が例示したように、恒産をもたず、自らの智恵だけをたよりに店を、生活を維持し、会社組織を維持してきた大衆にちがいありません。…」の部分である。

吉本は夏目漱石の随筆を参照し、引用している。
夏目漱石が回向院で相撲を見ている。相撲取りは四つに組んだままお互いに少しも動かない。はたからはまったく静止しているように見える。しかし、波打つ腹や背中を流れる汗により、お互い全精力をつぎ込んでいることがわかる。(「互殺の和」という)
生活をする個人も、上記相撲のように、満足な衣食住をするために、日々緊張をしながら仕事をしている。
仕事だけではない、日常生活も、自然環境・社会環境・身近な妻子・自分自身の心ですら、四つに組まなければならない敵であり、少しでも力を抜けば瓦解する。相撲は2~3分限りで勝負がつくが、これは、生涯四つに組んで、最後には疲れ切って死んでいく。これが人間の本質ではないのか。
漱石はこの事実に打ちのめされ、人間は神経衰弱になるしかないと言ったという。

平凡が非凡であること、非凡な営みに支えられて、ようやく日常という秩序が成り立っていることに気づくこと。
生きるということは、四つに組んで大汗をかき続ける不断の営みと自覚することを吉本は自立のための根拠だといっている。

ー個人幻想と共同幻想

我々が日々緊張の中で日々仕事に打ち込んでいるならば、また日常生活、自然や社会環境、身近な妻子、自分自身の心など、あらゆるものと日々四つに組んで生き抜いているならば、そういった自立した大衆であるならば、日々さらされている膨大な情報で構築された「共同幻想」に対する「裂け目」すなわち違和感を感じることができる。そうでなければ、もし自立した大衆でなければ、我々はその「共同幻想」の魔力の中で抵抗もなしにただその幻想を信じて従ってしまうのである。

ー対幻想ー

特定の二人がお互いにその関係を続けたいという意識的あるいは無意識的な思い を 対幻想 と私は理解した。

その典型である夫婦の対幻想を見よう。
遺伝子のなせる業か、二人は出会い、子どもをつくり、育て、生活を維持するため懸命に仕事する。それから、子どもの旅立、夫の定年など夫婦のステージは刻々と変化し、そのため対幻想(二人がお互いにその関係を続けたいという思い)も変化するだろう

ー個人幻想と対幻想ー

例えば、子どもが社会へ旅立つと、夫婦は再び向き合うことになる。しかしそれは、昔の若い二人ではない。それから定年を迎えて、家に夫が四六時中いることになる。そして妻は…夫源病となる。
妻という日常生活のプロと、夫という素人において、妻が吐く不平不満のビームに夫は全員討ち死にである。
何故か、このように、対幻想が変化していることに、二人は気が付ていない。
女性は変わりゆく日常生活の変化により、自分の変化にも気が付くが、男性は若い二人であった当時の対幻想の中に取り残されている。そのことに女性も気が付いていないのではなかろうか。
しかし、次々と変わる対幻想に気付く為には、夫婦は個人幻想を手にしていなければならない。
夫婦が対幻想を生涯続けようとするなら、相手の心と四つに組み、自分自身の心とも四つに組み、少しでも力を抜けば瓦解する、そのような不断の営みを生涯つづけることになる。
結婚式で誓ったであろう。
「私○○○○は□□□□を妻(夫)として迎え順境にあっても逆境にあっても病気の時も健康の時もあなたの夫(妻)として生涯愛と忠実を尽くすことを誓います。」と
これは、「相手の心と四つに組み、自分の心をも四つに組み、そのような不断の営みを生涯つづけること」と同じことをいっているのではないか。そしてそれを相手にそして神仏に誓うのである。
自立した個人として個人幻想を持てといっているのではないか。
結婚式での誓いの言葉は個人幻想であった・・・かな。
個人幻想を持ち続けない限り、相手に対する尊敬(リスペクト)も芽生えてこないのではなかろうか。

ーすべての共同体に対する向き合い方ー

養老孟司の著作内に次のフレーズがある。
『仕事は自分に合っていなくて当たり前です。私は長年解剖をやっていました。その頃の仕事には、死体を引き取り、研究室で解剖し、それをお骨にして遺族に帰すまで全部含まれています。 それのどこが私に合った仕事なのでしょう。生まれつき解剖向きの人間なんているはずもありません。 そうではなくて、解剖という仕事が社会に必要である。ともかくもそういう穴がある。だからそれを埋めたということです。』
仕事というものは、自分に合った合ってないという事ではなく、そういう仕事が社会で必要であったから、ということで、コツコツ努力する様子が目に浮かび、以後身近な先生となった。

それと同様、あるいはそれ以上に吉本の『共同幻想論』とそれ以外の著作での総合的な思想の内容は国家とは何であるかという大きなテーマで論じられている。
その中の幻想という考えの、特にコツコツと不断の営みをつづける自立した個人幻想の考えは、今後SNS等による膨大なあるいは刹那的な情報の共同幻想と対峙するとき、その共同幻想の魔力の中で抵抗するための唯一の手段となるのではないか。
また、我々が二人以上の共同体(夫婦、家族、グループ活動仲間、自治体、国家、東アジア、世界等すべて)の中ですでに活動しているときに、その共同体の裂け目(違和感)を感じ、共同体への向き合い方を修正するためには、コツコツと不断の営みを一生続ける個人幻想が必要なのではないか。
これが、すべての共同体に対する向き合い方として、吉本が我々に伝えたい極めて重要なメッセージである。


八坂神社と先輩のメール

当時、息子一家がいる青森県を訪れた帰路に、日本海沿いの道を選び、山形県にある先輩庄司さんの実家に寄ってみた。
しかし、実家にお邪魔する理由がない。
それで、実家の直ぐ近くにある、映画『おくりびと』のロケ地(アトク先生の館)を訪れたり、庄司さんが自家伝を綴った小説『小八伝』に出てくる八坂神社を訪れ、庄司さんの健康を祈ったりしてこれが結構充実した時間だった。
最後に、実家の正門でさり気無く記念写真を撮っていると、偶然に家から出てこられた10代目小八さん(後ほど判明)にお会いしたのである。
同じ会社でかつての庄司さんの後輩でしたと弁解しながら、並んで写真を撮らせていただいた。
帰宅してから、写真を添付して庄司さんにメールでその様子をお知らせした。
その返事には

荒井様
写真拝見しました。
そして驚きました。
わざわざ実家の方を回っていただきありがとうございます。
姪の旦那である〇もびっくりしただろうなぁ。
八坂神社は子供の頃の遊び場でした。
昔神社の周りは村持ち田圃で子供が管理してました。
揚がり米で餅を大人達に搗いて貰って食べました。
素朴な、しかしよく出来た社会でした。
先ず以てお礼まで
添付は直近の我が家の庭です。
庄司〇〇

神社の周りの田圃は村という共同の持ち物で、それを子供達だけで管理にしていたという。
子供達は大人たちから米作りの技術を教えてもらいながら、子供達だけで米を作ったのだろう。
子供達は技術を学び、共同して物事を成し遂げながら世代交代をしていく。
逆に考えると、世代交代を視野において、神社の周りの土地を村の共同としたのは誰だったのであろうか。
世代交代をして亡くなる親は田畑を守るご先祖様となり、子供達はご先祖様を身近に感じながら敬い、また親になっていくのだろう。
先を見据え、安定した濃密な社会が目の前に展開する。
現在では、この様な世代交代を促す田圃のような存在があるだろうか。
揚がり米の様な存在があるだろうか。
もし数多ある会社が田圃のような役割が出来ないとしたら、いったいどの様な役割があるのだろうか、どんな役割を目指せばいいのだろうか。
濃密な社会を嫌う世の彼らには、濃密な社会以上のそれこそよく出来た社会を作れるのだろうか。
いや、そもそもそんな社会を目指しているのだろうか。
問いだけが増えていく。


ホモサピエンスの行く末

一方的な軍事侵略と、核兵器使用への言及。
「常民の常識」という言葉が”ふっ”と頭に浮かぶ。

(若松英輔(批評家、東京工業大学教授)が語った、民俗学者 柳田國男の言葉 “常民の常識” の説明である。「常民の常識」の常民とは「民衆」の事であり、常識とは「どこにも書いていないけどみんなで大事に守っているもの」と解説している。 )

もはや、彼を支持する人はなく、恐怖による言動の正当化を試みている感がある。
ホモサピエンスは出来損ないの増幅器、滅ぶ運命の種(しゅ)、これ確定か?!

職業を計測器設計から福祉に変えた。福祉の専門学校(1993年度社会福祉士科卒業)の卒業文集 として提出した文章 から以下を抜粋した。
<前略>
前頭葉の働きは増幅装置の役目をしていて、感情を増幅したり、例えば人に優しくする感情をより優しくしたり、人を憎む気持ちを更につのらせ戦争をしたり、また目的の達成欲・知識欲を増幅したりして、科学技術・文明を発達させてきました。
そして最後にソレッキ博士は彼の手記にこうしるしているそうです。「ネアンデルタールは死者に花を手向け、弱いものをいたわる心を持っていた。私たちが人間性というものを、もう一度見つめ直す事ができたとき、私たちの文明はシャニダールの花のようになにかしら美しいものになる可能性をひめている。」
なにを我々は見つめ直すとよいのでしょうか。弱いものをいたわる心でしょうか。いたわる心 というものをすでに我々は理解していると言えるのでしょうか。すでに我々は巨大な前頭葉を幸か不幸か持っています。この働きを優しい感情にのみ働くよう我々が意識を向ければ、いずれの日にかその見返りとして、その意識が遺伝子に作用して、すばらしい進化をとげられるのでしょうか。ソレッキ博士の、可能性を未来に託すような、すばらしい詩的な問いかけに我々は答えていく必要があると思います。
<後略>
それから30年近くが経過した。その間にいろいろなことが発見されている。

はじめに、ホモサピエンスは上記ネアンデルタールと交配し、約2%のネアンデルタールの遺伝子を持っていることが発見された。しかも、今でも実際に遺伝子として活躍しているという。例えば、 妊娠時子宮壁を厚くして妊娠中の子供を強力に保護しているという。ネアンデルタールよありがとうである。壮大な異種間の物語である。
ならば、前頭葉という増幅器に何でも増幅するのではなく、選択的にフィードバックが掛けられる遺伝子を引き継いでいないものか。

つぎに、最近発見されたのであるが、何と!我々の新しい意識・行動・思考は繰り返すことによりその傾向になるように切り替わる遺伝子スイッチがあることが確認されたそうである。しかも、その傾向は遺伝するということが確認されている。 その遺伝子スイッチも現在500程度見つかっているらしい。
もし、ソレッキ博士が言うように「人間性というものを、もう一度見つめ直す事」ができる意識・行動・思考を繰り返し実践できたなら、その実践が遺伝子に作用して、すばらしい進化をとげられるかもしれない。

いや!ぁあ~~ だめなホモサピエンスの行く末を遺伝子に託すことになってしまったか。

考えてみると、軍事侵攻、いじめ、園児送迎バスによる熱中症の死亡など、故意や過失など区別なくまた際限なくホモサピエンスはいろいろやらかしてしまう。
核兵器の使用まで言及することはあっては困るが、この社会を眺めてみると、一言でいうと、ホモサピエンスはその誕生から今まで不完全であると日々証明しているかのようだ。

しかし、おそらく同時にホモサピエンスはその不完全を克服するために一生懸命取り組んだに違いない。意識しているかどうかはしらぬが、よりよい社会に変えていこうという努力を払ったに違いない。

とりわけ、フランス革命以後はその努力を保守とか革新とかの言葉で表し始めたのではないか。
保守の論客「中島武志」(評論家、東京工業大学教授)は、下記のように的確に保守と革新を説明している。
「革新」とは、賢い人の理性によってビジョンを作り、それを基に設計的に社会をつくっていけば理想的な社会に到達するという近代的な考え方である。
「保守」とは、人間は不完全であるという前提で、上記のような人間の理性に対して、むしろそんな人間の理性を越えたもの、経験とか慣習とか長い間みんなが重ねてきた集合的な経験知そんなものを大切にしながら、漸進的に少しずつ理想的な社会に変えていこうという考え方である。
上記「保守」は昔に戻ればいいですよ(復古思想)という立場はとらない。
人間が不完全であるという前提が保守であるならば、人間は過去においても不完全であったから。昔には昔の問題があったから。 一方、なにも変えないのがいい(保守反動)ともいえない。何故なら、今生きている人間も不完全であるから。何も変えないということは、不完全な自分たちを握りしめているだけだから。

我々一人ひとりはどう考えてもホモサピエンスはやはり不完全な存在であるとという前提に立たざるを得ないだろうと思う。
であるなら、理性による社会の変革も重要であることは認めつつも、その理性も不完全な存在であるホモサピエンスの理性であると考えると、 当然その結果も間違っているのではないかと自分を疑ってみてもよいのではないか。
理性を尊重しつつもそれを疑い、今までみんなが積み重ねてきた経験知に照らし合わせて、少しづつ社会を変えていこうとする、いわば、上記の「保守」と「革新」の融合と考えると、極めて乱暴ではあるが、その結果は「常識」を紡ぎだすと考えても何の違和感もないように感じるのであるがどうだろうか。
『みんなが大事に守っていくものを合意しながら紡ぎだしていく。』と考えるのはどうだろうか。

それでも、何かやらかしてしまうなら、日本には「左左右右元元本本」という言葉がある 。倭姫命の御巡幸の際、お供になった大宇祢奈の覚悟をいったものである。
左にあるものは左として、 右にあるものを右にしたまま で 左にかえったり、右に廻ったりと 不自然なことを一切おこなわず、 すべてのことを、元(はじめ)を元(はじめ)のままで違うことが無きように、本(もと)を本(もと)のままで違うことの無きようにすること
要するに、不自然なことをせず自然なことをして、また常に初めを意識して初めに戻るということである。
人間も自然の一部であるから、不自然なことをせず、暫く頭を冷やすことも大切であろう。

ーそのための魔法の呪文 ー
”sasauugengenponpon”

その呪文は八百萬の神々、言い換えれば自然に誓ったものだが、人間も自然の一部であるという日本においては、自分自身(ホモサピエンス)に誓った言葉でもある。

みんなが大事に合意しながら紡ぎだしていくもの「常識」が自然と根を張り、初めの清浄な心持を忘れず、その「常識」に戻り判断をしていく。

そんなことを切に願う今日この頃である。


定年オヤジ改造計画

垣谷美雨原作の「定年オヤジ改造計画」がドラマとして、7月25日(月)に放映された。
本は2018年に出版されている。
団塊の世代やポスト団塊の世代あたりには、目も耳も痛いシーンが続出する。

大企業の部長だった常雄は定年退職し、悠々自適な暮らしを夢見ていたが、妻は「夫源病」で鬱状態。妻に避けられ、娘には「アンタ」呼ばわりされ、暇を持て余す日々。そんなある日、息子夫婦に孫の保育園のお迎えと育児を頼まれる。「(母性がないので)男にはできない」と思い込んでいた家事育児に孤軍奮闘。孫に振り回され自分の時間が持てないストレス。妻や嫁に共感した常雄は自らを改造する。加えて自分に影響を受けていた息子の改造にも乗り出し、関係者すべてがハッピーとなる大団円の物語である。

逆境から自ら自分の非を見つけ、認めて次の行動につなげていく。これは常雄が現役(サラリーマン)時代にコツコツと自分の仕事に取り組んで身に付けた自立の根拠だと思う。
見ていて気持ちが良い。
録画しているので、すでに7~8回はみているだろうか。
3月末に退職して数ヶ月、ひょっとして、自分では分からないが、どこかにこのオヤジ(常雄)と重なる部分があるのだろうか。

きっと結婚式で、この夫婦(常雄と十志子)はお互いに、そして神に誓ったのではないだろうか。
「私○○○○は□□□□を妻(夫)として迎え順境にあっても逆境にあっても病気の時も健康の時もあなたの夫(妻)として生涯愛と忠実を尽くすことを誓います。」と。

言い換えれば、夫婦に限らずその関係を生涯続けるということは、「相手の心と四つに組み、自分の心をも四つに組み、そのような不断の営みを生涯つづけること」と同じことではないだろうか。
生涯続けるということは、何につけても大変なことである。

以下に自分でまとめた「定年オヤジ改造計画」のドラマのあらすじを掲載して、このエッセイの終了とする。

「定年オヤジ改造計画」あらすじ

庄司常雄は一流会社に勤め、最後は部長としてめでたく定年退職を迎え(見送った部下たちに逃げ切り世代と陰口を叩かれる)…がしかし、再就職先が破綻し求職の熱意も消え、ぬれ落ち葉・ゴキブリ亭主と化した夫。自由時間がいっぱいあって、悠々自適の日々を送る…はずだった。

妻は不定愁訴とかで、事実上の家庭内別居に近い状態。
娘からは「アンタ」呼ばわりされ、夫源病やジェンダーロールの呪縛やらワンオペ育児という謎の言葉で責めたてられ、これまでの自分の役割を全否定されてしまう。
常雄の主張(口ぐせとなっている)は以下の通りで、分が悪くなると「俺は、ただ、仕事をしていただけだ。」という言い訳が精いっぱい。
①(男女の役割について)
女性は母性があると信じている。(母性神話)
子供は3歳まで母親が育てるべきだと信じている。(3歳児神話)
子育ては仕事よりも楽と信じている。
②(常雄の母親のこと)
姑、小姑、農作業の中で子供4人を完全に育てたと信じている。(自分の母親は菩薩だった。)
③妻の不定愁訴は自分が原因であるとは夢にも思っていない。

いったい自分のどこが悪いのか。
大いに悩み始める。

ある日、長男の妻の再就職のため、孫の送迎及び世話(育児)を家族全員から頼まれ、母性神話と3歳児神話で対抗するが、暇なのは自分だけということで押し切られる。
さて、男・常雄どうする。

元同僚に相談するが、彼も常雄と同じ境遇であるとわかり、自分だけではないと理解する。

常雄(末っ子)は実家に行き、集まった兄弟(長男・長女・次女)全員に男女の役割・父親母親のこと・妻の夫源病について諭され、下記のように、徹底的に諫められ、深く悩んでしまう。

①(男女の役割について)
ジェンダーロールの自縛 男は仕事、女は子育てと親の介護は大正時代からの政府の策略
3歳までは親が育てるべきだが、何も女が育てるとは決まっていない。(3歳児神話の否定)
②(常雄の母親のこと)
母親は菩薩ではない。姑や小姑にはつらく当たり、気性が激しくいつ怒り出すか分からないので友達も呼べなかった。常雄を育てたのは近所の山田ばあさんで菩薩はそちらだ。
母親は夫を死ぬま憎んでいた。夫と一緒にいる写真では笑っていない。
母親の遺言は「もし旦那が私の夫と同じ性格であれば、呪い殺すしかない」であった。
③(彼の妻の夫源病について)
この村で夫源病が原因で自殺があった。精神の病は軽く考えてはいけない。大事にしてやらねば。一緒に旅行なんてとんでもない、なるべく距離を取ってやらねば。

常雄は孫の送迎や育児の実践を通して、子育ては仕事より楽という彼の主張は崩壊した。
また、長男の妻からも、母性神話・3歳児神話は誰も信じていないことを聞きだす。娘、兄弟全員、長男の妻からもそれを言われ、彼の主張は崩壊寸前である。

育児中に、ついに長男の妻から長男に殺意を覚えたと告白され、長男も自分と同じ過ちを犯しているのではないかと疑い、ついに図書館やインターネットで上記問題の調査を開始した。
また、父親と一緒に写っている写真には笑顔がないと、実際検証してみて事実と分かった。
調査の結論は「俺は国際標準ではない、むしろ化石だ。」と常雄の主張はすべて崩壊し、深く納得した。

妻に長期海外旅行を勧め、その間に保育を長男と共に実践し、長男に自分も誤った考え方をしていたことを伝え、妻を大事にしろと説得する。長男も納得する。

オムツなし保育の撤回をもとめ、常雄が立ち上がる。
おむつなし保育のアンケートを行い、パソコンでその編集をし、小冊子を作り上げ、共働きが当然のこの世において若い人には余裕がなさすぎると園長の説得を試み、最後にお願いしますと、スタッフ全員で頭を下げる。(常雄のサラリーマン生活が彼の自立の根拠

元同僚数名の助けを借り、保育園の祭りの出店を一手に引き受け、園長にじいじ力を認めてもらいありがとうと一同自ら先に礼を言い、頭を下げる。
ついに、園長が「私の時代は結婚か仕事でした。理想に走り過ぎていました。」とオムツなし保育を撤回し、保育園を利用する親全員に感謝をされる。

娘がお腹に赤ちゃんがいること告白。親(常雄と十志子)の仲直りを見て結婚を決意する。

以上、全員ハッピーの大団円の物語である。

下記のURLはレビューである。 
https://bookmeter.com/books/12663155?page=1
1200件近くの感想があるが、どれもこれも面白い。

追伸
テレビドラマの中で、常雄役の郷ひろみさん。
土鍋のふたを素手でつかんで ”アッチッチ
よくできた脚本だ。


70歳が老化の分かれ道

和田秀樹こころと体のクリニック院長執筆の「70歳が老化の分かれ道」が2022年度上半期にベストセラー第1位になった。
70代は老いと闘う時期。
80代は老いを受け入れる時期。
ということになると、70代は老いと闘える最後のチャンス。
勝てば若さを持続する人、負ければ一気に衰える人
と和田先生は言う。

これまで仕事を頑張って得た能力や知恵は、これからもこの70代を生き抜くことに役立てることができると本の中で先生は述べている。
「定年オヤジ改造計画」で記載した主人公の庄司常雄はその能力を自分自信で自分を改造することに使い、また保育園改革に役立てたのだ。

退職を契機にそれまでに得た能力や知恵でもってボランティアや趣味の活動を始め、前頭葉をバリバリ働かせ「生きがい」として新たな活動を模索することが重要であるという。
しかし筆者は唯一介護を「生きがい」にしてはダメだという。
介護は被介護者に感謝され満足感が得られるので、それにのめり込むと友達とは縁遠くなり、趣味もつくれず、娯楽の時間も皆無になる。
次第に追い詰められ、暴言・虐待行為につながったり、心身の不調をきたしたり、また被介護者を見送った後は何もできない「介護廃人」になって老いていくというリスクが高くなるそうである。

母親はちぎり絵の先生(顧問)という形でちぎり絵教室へ月2回通っている。
送り迎え付きである。
たまたま教室の会場から送迎車まで距離があり、転んでしまった。両膝とも人工関節で右肩を強打しているので立てない。救急車を呼び病院へ連れて行くと鎖骨骨折と診断された。
折れ方がよくて手術はしなくてもよかったが、下着の上から鎖骨固定バンドで締めあげられ、下着の交換のために3~4日ごとに整形に通うことになり、数回通った後私が覚えることに相成った。

昼食作り、通院(内科、皮膚科、眼科、加えて今回の整形)、洗濯、掃除、風呂洗い、ゴミ出し、デイサービスの送り出し、毎日の弾力包帯の交換、以上に付け加えて下着の交換が増え家事だけではなく身体介護に足を踏み入れた感がある。

しかし、社会福祉士である。その辺は上手く立ち回れるはずであるが・・・きっとできるだろう。
成年被後見人は予定通りあと数名引き受けられるかどうか・・・先ずは一人追加から。
来年から2回目2年間の自治会長になりそうだ・・・これはほぼ確定。
クラッシックギターの腕は順調に回復しているだろう・・・とにかく焦らずに。
新しいギタークラブやギターマンドリンクラブに加入できるかどうか・・・腕を上げてから心配しよう。
そして、学生時代の友人や、新しいクラブの仲間と上手くやっていけるかどうか・・・できるだろう。
行動のすべてが「夫婦ふたりユニット」にならないように気を付けることができるかどうか。 ・・・できるだろう。妻は友人との付き合いをことのほか大事にしているし、私もそのように思っているから。

覚えたい事やりたい事が山のようにある・・・のびしろしかないわ
古希の俺 それでもまだのびしろしかないわ

でも、古希の君 もうのびしろがないわ・・・とは言わせない(キッパリ)