美を身に纏う


本人だけが意識していない美しさがある

松江城の堀端にある小泉八雲記念館で、気になるパネルに出会った。その時は、内容が理解できなかった。
それで、二回目の訪問を決意した。記念館の窓口で理由を伝えると、「そういう方がおられますので・・・」と言いながらA4の紙を渡された。その内容は廃版となっている小泉八雲著「日本」からの引用であることが判明した。

「礼儀作法は、これは一個の道徳的な美的な勉強であって、わざとらしい技巧の跡などはどこにも消えてしまってないというほど、それほど完全無類のものにまで達したのであった。優雅と美しさとは習慣となった感があり、人体の組織の遺伝質となった感があり、すくなくとも、婦人のばあいは、疑いなく、そうなったのである。  というのは、日本の最上の美徳的産物は、象牙細工でもなく、青銅製品でもなく、陶器でもなく、日本刀でもなく、驚くべき金属製品や漆器でもなくて、日本の婦人である。  現世界にこのような型の女性は今後何十万年を経るといえども再び現れないであろう。」

TVの番組の話であるが、仲居さんの仕事として、お客さんへのお茶出しや配膳への美しい所作が求められつつ、お客さんの希望や満足感などの観察も求められるという。
所作は美しいままで、仲居さんの意識は常にお客さんの方を向いている。

そこには、本人だけが意識していない美しさがある…私はこれを『美を身に纏う』と表現したい。
華道、茶道、武道など『道』がつく日本文化は上記『礼儀作法』と同等なことが言えると思う。

小泉八雲の妻セツは美しい所作をしながら、意識はいつも自分(小泉八雲)の方を向いている。
小泉八雲の驚く様を容易に想像できる。今後何十万年を経るといえども再び現れないと言う表現も当然だろう。

すでに美を身に纏った女性に会ってみたい。これから美を身に纏おうと努力している女性を尊敬したい。 本当にそう思うのである。

それは 美を身に纏った女子高生との出会いであった

散歩コースを歩いていると、いろんな人に出会う。
今日は、女子高校と思われるが、一瞬目が合った時、にこやかに「こんにちわ」と少し腰を折り挨拶をしてくれた。
また、買い物に出かけたとき、多くが大きなマスクをしてイヤホンでスマホの音楽を聞きながら、横断歩道を渡る女子高生の集団に出会った。
その中で、停車中の私の車に向かって、笑顔で会釈をしながら待たせてはいけないとばかりに小走りで渡る女子高生がいた。
二人とも、とても美しい身のこなしで、本人もそのことに意識をしていないであろう。
二人を育てた親に会ってみたい。本人の優しさに敬意を表したい。

完全武装

清潔で、スタイルに合う衣装を着て、完璧な化粧をし、教養を隠し、美を身に纏った笑顔の女性
年齢は無関係に、日本女性だけが成しうる完全武装の完成
東洋・西洋・男女関係なく、敵う相手はもはやいない

日本舞踊

次の写真は日本舞踊の発表会である。
当時小学生4年であるという。
おてんばぶりに祖母が心配して、習わされたのが始まりであるらしい。
定年を迎え雇用延長になった今も、歩く姿勢、手の動作、正座の姿、要するに動作全体がごく自然に見えて美しいのである。
にわかに真似できる所作ではないと鈍感な自分でもそれはわかる。
これが「身に付く」ということかと思う。
祖母の心配は有形無形の財産となっている。

家制度が生きている当時の日本では、花嫁修業と称して、女性に終身身に付く美を教え込むという戦略であったかも知れない。これは小泉八雲の妻セツの所作に対する逸話が物語っている。
今、花嫁修業なんて口走ったら、いつの時代に生きているのとか、そんな余裕がどこにあるのとか、女性が暮らしていけるスキルが最優先だとか、恐らく全否定されるだろう。
しかし、踊りでも、お茶でも、生け花でも、キッラと輝く一瞬の美の姿は恐らく周囲のことを忘れているからこそ出るものだろう。自然と出た姿は、偶然それを見た人にとって美なのではなかと思う。しかも本人だけが意識できない美なのだ。それは花嫁修業をそのまま捉えた意味とは対局の何物かであると思う。

それにしても、若い娘の縄跳びダンスや、その種のダンスの決めポーズが決まったとき、本人の笑顔を見るにつけて「楽しそうだなあ」と呟いてしまう。
しかし、八尾の風の盆や西馬音内盆踊りを重ねてみる自分がいる。笠を被り顔を隠し誰に合わせているかわからないテンポで踊るその姿は受ける印象のその深みにおいて次元が違う・・・・と言えば、数えきれない反発が出そうである。