片付け(2)


気持ちが整うということ

「人が寝るときには、物も寝たいのではないか。人は布団に入る。それなら物も決まった場所で寝たいのではないか。」と思うだけで、不思議に苦もなく元の場所に片付けることができる。片付いた場所を見ても気持ちがよい。自分より相手(物も含む)を中心に行動すると、とても気持ちが整ってくる。

四年前、紅葉を見に京都の曼殊院に行った。帰りに荒了寛和尚の日めくりを購入した。その中には「履ものを揃えなさい 手を合わせてから食事をしなさい それだけでも 家庭の中が整ってきます」という一枚があった。自分を中心に据えることなく、 履物や食事など相手を中心に敬意を持って接していると、気持ちが整ってくる。それを繰り返していると物だけではなく、人にも敬意を持って接するようになり、家庭全体が整ってくる」と私なりに理解をしている。
物の片付けも全く同様の理屈ではないか。「片付けなさい それだけでも 家庭の中が整ってきます」。

この理屈は仏教の唯識教学ではないかと思っている。「表層意識の在りように応じて、深層を薫じて心を染めていく(薫習)。従って、絶えず自分より相手を中心に行動することを繰り返すことによって、次第に自我から離れ、清浄な心(阿頼耶識)になっていく」と理解している。理屈は調べられる。しかし理屈は理屈でしかないが、森羅万象すべてのことにアンテナを張って、勉強できる環境にある人は勉強すべきである。そして、そういう境遇にあることを感謝すべきである。(と自分に言い添える。)

いずれにしても、自分より物を中心に敬意を持って片付けることを繰り返すことだけでも、気持ちが整うということが徐々に実感できてきたのである。


物から自由に至るまでのエラー

チューブのハミガキが見当たらない。
それから、二三日は携帯用のハミガキを使っていたが、突然見つかったのである。
冷蔵庫の中で十二分に冷え切って震えていた。
お互い苦笑いしたが、明らかに伏し目がちな、あんたでしょう、という雰囲気が感じ取れる。
しかし、なぜ冷蔵庫に入れたのか思い出せない。
納得がいかないまま二か月が過ぎた。
【悪夢再び】
会計伝票に領収書を貼ろうとした時(後見事務)、スティック糊が見当たらない。
使っていない液体糊を暫く使っていたが、ある日「何これ」という声とともに突然見つかったのである。
台所にあるプルダウン式の調味料入れの中にさり気なく鎮座している。
あまりのショックに写真を撮った。(スティック糊と分かる様に商品名をこちらに向き直して撮影)

なぜこんな所に、まるで巧妙なかくれんぼだ。

この話をすると、大いにうけるのである。

さて、「ハミガキ事件」、実は見つかった所は、冷蔵庫のチューブ式の香辛料(ワサビ・辛子・生しょうが・柚子胡椒)コーナーである。
考えてみるとハミガキをするとき、洗面台で磨くのではなく、あちこちと場所を変え片付けをしながら磨くということが身に付いている。『身に付く』とは、要するに無意識でやっているということである。このときに机に置いているハミガキをハミガキと認識せずチューブという形状で冷蔵庫にしまい込んだ後、洗面台に行って口をすすいだと思うしかない。

「スティック糊事件」は、写真の通りうまく紛れ込んだと感心する。会計事務が終わった後、机にある書類をどこにどれをしまい込むかはほぼ頭にない。次の成年後見業務のストーリーを頭に描いている。「ハミガキ事件」と同様、スティック糊を無意識に形状と色でしまい込んだと思うしかない。

片付け(1)物からの自由 という項目で、実践の究極には、片付けるという言葉さえ消えて、物から自由になる。
と記載している。
『片付けるという言葉さえ消えて』は意識をしないで無意識に片付けることができ、その物を意識しないということを『物から自由になる』と表現している。
さらに、これを、日本文化であるとも表現した。
日本には職人文化がある。意識をするとその影響が身体に及ぶので、技術を究極まで磨き、頭で意識をしても身体は無意識に動き、物を完璧に仕上げてしまう。
また、美を身に纏うのページで『所作は美しいままで、仲居さんの意識は常にお客さんの方を向いている。』という表現で、所作は無意識に美しく振る舞い、意識は常にお客さんに向いているという離れ業を例記した。小泉八雲のいう日本の婦人が成し遂げた世界に誇る究極の礼儀作法である。
もう一つ(日本文化とは関係ないが)例を上げる。
経験はあると思うが、運転しながらつい考え事をしていると、気が付いたら目的地に着いていた。この場合の運転行為に明確な意識はないということになる。長きに亘る運転技術が身に付いているからこそであろう。

以上から、「スティック糊事件」を考えると、物を片付けるという無意識の行為と同時に後見業務のストーリーを考えていたが、無意識に片付ける場所を間違えてしまった、ということになる。
「ハミガキ事件」も同様なことであろう。
目的に沿った適切な帰る場所、まだこんな間違いをするということは、まだ修行が足りないということになるのではないのか。

もう一つ「弁当事件」がある。
弁当をもっていつものように仕事に出かける。
帰宅(15:30~16:30)したら、
洗濯物を取り込み、たたんで収納する。
掃除機をかけ、浴槽を洗う。
コヒーを準備し、弁当箱を洗う。
職場から帰宅して夕食までの片付けのルーティーンだ。(初めは意識して辛かったが、最近ではこのルーティーンが無意識にできるので、かえって調子を整える作用をしている。)
しかし、荷物が少ない時には弁当をカバンの中に入れるので取り出すことを忘れてしまうことがあった。
ある日、弁当箱が洗っていないことが判明し、妻がカバンから弁当箱を取り出し開けたらなんと朝に持って行ったそのままの状態である。
驚いたのは私である。食べるのを忘れたのだ。「誰の弁当を食べたの」という声が聞こえる。
朝にパンを食べ、夕食まで気付かなかったのだ。
理屈を付けるとしたら、弁当を食べることまで忘れる位仕事に夢中だったとしか考えられない。
それ以来、弁当事件は発生していない。

いずれにしても、どんな理屈を付けるにせよ、片付けることを意識して始めたら、時が立つにつれて、無意識に変わっていく。上記のように考えられないエラーが発生するが、それは、物から自由になっていく過程で起こると今は思っている。