御巡幸地(2)


倭姫命と宮川を遡る

前回(2021/08/29)には、倭姫命との静かな対話 in last summer と称し、①櫛田川を下る ②大与度社と天照大神のお告げ ③伊蘇宮から寒川(外城田川)を遡る、そしてそのルートの終点である御船神社まで辿った。
今回(2021/09/11)は、御船神社を出発し、笠木を経て宮川が流れる相鹿瀬(おうがせ)まで行く。
そして、その相鹿瀬から宮川を遡り、倭姫命が休憩したとされる神秘的な神の岩を経て、多岐原神社を参拝し、宮川の支流の支流にある瀧原宮まで行く旅を目指す。

多気郡多気町土羽【御船神社 内宮摂社 ・牟弥乃神社 内宮末社(2021/08/29、2021/09/11)】
木漏れ日溢れる朝、外城田川の終点である御船神社を再度参拝し、宮川を遡る旅の無事を祈ったのである。

「加佐伎」=「多気町笠木
御船神社(多気町土羽)の隣町(多気町笠木)に来た時のことであった。倭姫命は、そこで雨に降られ菅笠を着けたそうだ。そこでその所を「加佐伎」と呼ぶようになったという。

その処に御船留め給ひて、即ちその処に御船神社を定め給ひき。その処より幸行(みゆ)きする時に、御笠服(みかさき)給ひき。その処を「加佐伎(かさき)」と号(なづ)けき。


相鹿瀬(おうがせ)
ついに一行は宮川の瀬に着いた。

しかしその瀬を渡ろうとした時、鹿の肉塊が流れてきたのである。
それを見て、「これ悪し!」と言って、渡らなかったそうである。
そこでその地域を「相鹿瀬(あふかせ=逢鹿瀬)」と呼ぶようになったという。
大川の瀬を渡り給はむと為(し)たまひしに、鹿(しし)の完(ししむら)流れ相ひき。「是れ悪(あ)し。」と詔(の)りたまひて、度(わた)り坐しまさざりき。
其の瀬を「相鹿瀬(あふかせ=逢鹿瀬)」と号(なづ)けき。

倭姫命の時代には、日本中至る所、自然美が溢れ、それが当たり前の景色であったと容易に想像できる。
その中で、清らかでないものが突然目に飛び込み、渡ることを躊躇し中止にしたのである。
日本古来から現代まで続く清浄を基軸とする心は、このような自然の変わらない美の中で生まれ育まれたものではあるまいか。
今でも相鹿瀬のように、護岸工事をしていない美しい瀬がある。
私が相鹿瀬を眺めている景色は、倭姫命が見たものと同じだろう。

ならば、2,000年後、子孫に同じ景色を見せることができるであろうか。

相鹿瀬の景色から左へ目を移すと、茅葺屋根が美しい建物がある。
妻は、大学時代の仲良し5人組の女子会で、よく食事に行くが、ここも最近行った場所であるという。
個室があり、コロナ禍では最適の場所であるらしい。今度は妻の叔母たちと行く計画があるという。
私にしてみれば、再度右に目を移したときに、相鹿瀬の景色が目に飛び込むと同時に、連動する口と鼻からの新鮮な深呼吸が、私の必要欠くべからざる滋養である。
まあ、鮎料理も食べたいとは思うが。

鄙茅(ひなかや)のホームページには以下の文章がのっている。
【 日本一の清流宮川の田園風景に「日本料理 鄙茅(ひなかや)」はございます。
屋号の「鄙」とは伊勢からの田舎の意味、「茅」とは茅の庵の意味でございます。
時が流れ過ぎ去っていく。日本人にとっての原風景、食文化、里山のいとなみが少しずつ消えてゆく。『伝承』を心のよりどころとし、今無くしてはいけないものを百年先へ繋ぐため、創業慶応元年「元祖鮎の甘露煮・うおすけ」が150年目に「伊勢宮川の里」を開かせて頂きました。

とはいうものの、周りの美しい田圃の中に、異質な太陽光パネルが並んでいる。
まったく、相鹿瀬の鹿(しし)の完(ししむら)だ。

「環境省殿! 日本の原風景や里山に、このパネルはちっともセクシーではありません。メランコリーの一言です。
少なくとも、この日本料理店は百年先のことを考えています。これをセクシーというのではないでしょうか。」

[地球温暖化対策][原風景の保存]両立した方策は必ずあるはずだ。
[地球温暖化対策]という世界的命題に、それのみ特化した性急な行動は、最もたちが悪い。
もし上記日本料理店のように【今無くしてはいけないものを百年先へ繋ぐため】という『伝承』の価値観を第一とするならば、それから派生する生き方において、これからの日本の変容を優しく修復してくれるはずだ。

この相鹿瀬の地において、『日本の原風景を汚さないでほしい。』と倭姫命の切実な声が確かに聞こえるのである。


神の岩
地元の伝説である。
宮川を遡る途中、倭姫命が、この岩の上に座って休んだのが「神の岩」の名前の由来である。
岸には神原地区の村人が作った遥拝所がある。
が、登ってみると前面の草と雑木が繁網し、全体の姿が確認できない状態となっている。
地元に若い人がいないのか、高齢化が進んだのか、それとも訪れる人が少なくなったのか。
とにかく雑草木の成長は人間の都合を考えない。整備は大変である。
そんな事情はどこ吹く風、孤高で神々しく、宮川の美しさに映えて「神の岩」に相応しい。


度会郡大紀町三瀬川【内宮摂社ー多岐原神社(2016/02/11、2021/09/11)】

倭姫命一行は宮川の上流を目指して進んでいると、川の砂が流れる程の速瀬があった。
その時に、真奈胡(まなご)の神が現れ、安全な場所に渡してくれた。
倭姫命はその瀬を真奈胡(まなご)の御瀬(みせ)と名付けて、御瀬(みせ)の社(やしろ)を定めた。
其の処従(ところよ)り河上を指して幸行(みゆき)すれば、砂流るる速瀬有りき。
時に、真奈胡(まなご)の神参り相ひて、渡し奉りき。
其の瀬を真奈胡(まなご)の御瀬(みせ)と号(なづ)けて、御瀬(みせ)の社(やしろ)を定め給ひき。

上記の「御瀬の社」は祭神が真奈胡神の多岐原神社だ。
神社の前には倭姫伝説(多岐原神社の起源)の看板があった。上記の話は看板の①②を解説している。
また神社の前から宮川の河原に降りる細い道がある。
宮川は周りの景色をそのままに映し出し、真奈胡神が今なお守っているのではないかと想うほど美しい。
「真奈胡の御瀬」と名付けられている。
誰でも納得の名である。


22 伊勢国 瀧原の宮 (度会郡大紀町)【瀧原宮(2015/02/11、2015/11/03、2016/01/06、2021/09/11)】

今回で4回目の参拝である。 宮川の支流である大内山川からさらに支流に頓登川(とんどがわ) がある。 御手洗場では、その清流で身を清め、「瀧原宮:和魂」「瀧原竝(ならびの)宮:荒魂」「若宮神社」「長由(ながゆけ)神社・川島神社:同座」の順に参拝したのである。 今回の倭姫命と宮川を遡る旅はここまでである。
[訳]
倭姫命一行はそこからさらに進むと、美しい所に到着した。(御瀬の社から三瀬坂(みせざか)峠を越えて瀧原へ行ったと思われる)
真奈胡の神に「この国はなんというのですか。」と尋ねると、「大河の滝原の国」と答えた。【前出の倭姫伝説(多岐原神社の起源)の看板③④】
宇陀(うだ)の大宇祢奈(おほうねな)に、生い茂った草を刈り取らせ、天照大御神が鎮座する宮を造らせたのである。
[原文]
其の処従り幸行(みゆ)きするに、美(よ)き地(ところ)に到り給ひぬ。
真奈胡の神に「国の名は何そ。」と問ひ給ひき。
「大河の滝原の国」と白しき。
其の処に宇大(うだ)の大宇祢奈(おほうねな)を為(し)て、荒草を刈り掃(はら)は令(し)めて、宮造り坐(ま)しまさ令(し)めき。


倭姫命と南伊勢を巡る旅

前回(2021/09/11)には、倭姫命と宮川を遡る旅 と称し、御船神社 を出発し、宮川が流れる 相鹿瀬(おうがせ)から宮川を遡り、倭姫命が休憩したとされる神の岩 を経て、 多岐原神社の参拝と真奈胡の御瀬に感嘆し、 宮川の支流の支流にある 瀧原宮 まで行く旅をした。

今回は瀧原を出発し、南伊勢町の海岸沿いから能見坂と反時計回りに立ち寄り、再び宮川の下流に出会い、三か所の神社を経て伊勢市内まで行く旅である。
倭姫命が立ち寄ったいわれる伝説の場所は、①南伊勢町河内の腰かけ岩 ②その近くの仙宮神社 ③川上の清水乙女岩から、④倭姫命の小祠、そして再び宮川に突き当たり➄久具都比賣神社、下流に沿って、⑥園相神社円(つぶ)らなる小山を拝し、本日のルートの終点である⑦川原神社という場所である。

 

瀧原宮前の木つつ木館から出発 (2021/09/23  9:07 start)

今日の行程はかなり長い。
これからのことを考え、木つつ木館前の瀧原宮大鳥居からのお参りとした。
木つつ木館では趣味のDIYで使う銘木を購入している。あぶら杉やエンジュの板など時々掘り出し物が出るが、本日は先を急ぐことにした


『倭姫命世紀』には以下の記述がつづく。
[原文]
「此の地(ところ)は、皇太神(すめおほみかみ)の欲(おも)ほし給ふ地(ところ)には有らず。」と悟したまひき。其の時、大河の南の道自(よ)り、宮処(みやどころ)覔(ま)ぎに幸行(みゆき)したまふに、美(よ)き野に到り給ひて、宮処覔(もと)め侘(わ)び賜ひて、其の処を「和比(わび=侘)野」と号(なづけき)。
[訳]
この地(瀧原)は、私が永遠に居たい処ではない。と天照大御神は悟した。それで瀧原を出発し大河(宮川)の南の道を通り、宮処を求めて幸行していると、美しい野に辿り着いたが、宮処になる処がなく、倭姫命は侘しくなり、また天照大御神に侘びて、そこを「和比野(侘野)」と名付けた。

上記「和比野(侘野)」の比定地の度会町和井野の里に至るまでには、『倭姫命世紀』には記載されていない多くの伝承地がある。下記地図に伝承地を記載したが、無理なくすべてを通るルートはどうも無いようである。

檜尾峠越え(滝原 ⇨ 阿曽 ⇨ 柏野 ⇨ 檜尾峠 ⇨ 神崎村山))
このコースは山道で峠越えの難所である。
当然車では行けないので回り込み、檜尾(ひのきお)峠越えコースの終点である村山川の上流を目指す。
国道42号から県道68号に入り国道260号へ進むと眼下に古和浦湾を望み、沿岸に下り棚橋窯・新桑窯を右に見ながら栃木窯・小方窯を経る
そして村山川の橋を通過した直後すぐ左に折れ、その地へ向う。
そこは、一見「清流」の顔をしている。
しかし、近くの立て札に、「土石流」という文字で注意喚起し、その川の二面性を示していた

檜尾峠から村山川との出会いはここかも知れない。倭姫命はこの道へ降りてきたのだろうか。

腰掛け岩

再度国道260号に戻り、『腰かけ岩』を目指した。
倭姫命が幸行の疲れを癒そうと、腰をかけた岩であるという。
近くのワンちゃん、キャンキャンと吠えまくりである。
来訪者が来るたびに倭姫命は耳を押さえているのではないか。

南伊勢町河内甲 仙宮神社(2021/09/23)

『倭姫命世紀』には記載されていないが、『天照皇大神御天降記』に記載されている志摩国多古志宮であるという。
これから元伊勢伝承地といわれる所以である。
鳥居から左へ365段の石段である。思わず見上げてしまう。神崎神社を思い出す。
用意されている杖を使い覚悟を決めていたが、意外と早く自分を運ぶことができた。

猿岩石ではなく猿神石という。仙宮神社の祭神が猿田彦であることから、パワースポットになったのは最近のことらしい。

川上の清水

県道260号を東宮と道方を過ぎると、直ぐ左へハンドルを切り県道22号(伊勢南東線)を進む。能見坂トンネルを過ぎた当りから県道151号(度会大宮線)へ曲がり、13分ぐらいで川上の清水に着く。
倭姫伝説の神水『川上の清水』の看板が飛び込んできた。
確かにうまい水だ。(右の竹筒から水が出ていないぞ~~観光課の写真では出ていたぞ~~
昼過ぎだったので、ちょっと上流の大きな岩でおむすびなどを食べた。
倭姫一行もおむすびを食べ、美味しい水を飲み、エメラルドグリーンやヒスイ色の川で旅の疲れを癒したのではないだろうか。

乙女岩

『川上の清水』から5分程下流に、倭姫命が休んだという高さ36mで5m四方ほどの広さの『乙女岩』がある。
数日前にも雨が降っていたので、湿度が高く、枯れて倒れた雑木が苔むして滑りそうで、、ヒルに襲われる覚悟がいる。
人がほとんど登っていないのか、蜘蛛の巣が顔に付き、目印の赤いビニールテープも多くが剥がれ落ちていて、道が特定できず、あちこち迷いながら登り切った。
とても倭姫命が休んだ所とは思えない道だが…
しかし、岩上に立つと、目の前に川上地区の美しい風景の大パノラマが目に飛び込んできた。
赤とんぼもどんなに近づいてもジッとして動かない。
きっと複眼で美しさ100倍の景色に見とれていたのであろう。


倭姫命の小祠

乙女岩から10数分で和井野に着いた。
其の時、大河の南の道自(よ)り、宮処(みやどころ)覔(ま)ぎに幸行(みゆき)したまふに、美(よ)き野に到り給ひて、宮処覔(もと)め侘(わ)び賜ひて、其の処を「和比(わび=侘)野」と号(なづけき)。
『倭姫命世紀』の記述通り、和井野は美しい田圃と森に囲まれた日本の原風景である。
『倭姫命の小祠』は、倭姫命が和井野に訪れたという伝承を受けて小祠が造られたようである。


度会郡度会町上久具【内宮摂社ー久具都比賣神社(2021/09/23)】
[訳]
倭姫命一行は、和井野からさらに北へ向かい、再び宮川へ来た。
このとき、久求都彦が参上した。「あなたの国の名はなんというのですか」と尋ねた。「久求の小野です。」と答えた。
そこで、倭姫命は御宮処(おほみやどころ)を久求の小野となづけ、その地に「久求の社」を定めた。
[原文]
其の処従(よ)り幸行きするに、久求都彦(くくつひこ)参り相ひき。「汝(いまし)が国の名は何そ。」と問ひ給ひき。白(まを)さく、「久求(くく)の小野(をの)。」と白しき。
倭姫の命詔(の)りたまはく、「御宮処(おほみやどころ)を久求(くく)の小野(をの)。」と号(なづ)け給ひて、其の処に久求の社を定め賜(たま)ふ。


伊勢市津村町【内宮摂社ー園相神社(2021/09/23)】
円(つぶ)らなる小山
[訳]
久求都彦がいった。「お宮を建てるのに持ってこいの場所がある。」と。その場所へ幸行すると、庭園を作る神が倭姫命に会いにきて、天照大御神にお供えする野菜を作る畑を献上した。悦んでその処に「園相の社」を定めた。
そこから幸行すると、美しい野原があった。倭姫命は愛で、すぐその野原を「愛野(めでの)」と名付けた。
またその場所に円い小山があった。そこを都不良(つぶら)と名付けた。
[原文]
時に、久求都彦(くくつひこ)白(まを)さく、「吉(よ)き大宮処有り。」と白しき。
其の処に幸行して、園作る神参り相ひて、御園地を進(たてまつ)りき。其の処を悦び給ひて、園相(そのふ)の社を定め給ひき。
その処より幸行するに、美(よ)き小野ありき。倭姫命目弖(めで)給ひて、即ちその処を目弖野(めでの)と号(なづ)けたまひき。またその処に円(つぶら)なる小山有りき。その処を都不良(つぶら)と号(なづ)けたまひき。


愛野に円(都不良つぶら)なる小山がある。
これに比定されるのが、彼岸花越しの風景が美しい下記写真の小山である。


伊勢市佐八町【内宮摂社ー川原神社(2021/09/23)】
沢道の小野

[訳]
この処(愛野)から幸行すると、沢へ道が通じている野原があった。
そこを「沢道の小野」と名付けた。
[原文]
この処より幸行するに、沢道野(さはみちの)在りき。
その処を沢道小野を号(なづ)けたまひき。

この沢道は現在の佐八(そうち)町という所であり、佐八の地名はもともと沢の地といわれ宮川の川原である。
よって、川原神社となったのだろうか。



大若子命と五十鈴川の上流へ

[訳]
その時、 大若子命(おほわくごのみこと)が宮川を遡って船を率い、倭姫命を迎えにきた。
その再会に倭姫命は大喜びをして、大若子命に尋ねた
「(天照大御神をお祀りする)ふさわしい宮処は見つかりましたか。」
大若子命は「宇治の五十鈴川の川上に、ふさわしい宮処が見つかりました。」と答えた。
さらに喜んで「その国の名は何というのですか。」と尋ねると、「御船向田(みふねむくた)の国。」と答えた。
ここから(大若子命と共に)船に乗って、(沢道の小野から宮川を下り、五十鈴川の川上へ)幸行を開始した。
忌む楯桙(たてほこ)、種種(くさぐさ)の神宝はそこに留め置き、そのところを「忌楯小野(いむたてをの)」と名付けた。
[原文]
その時、大若子命(おほわくごのみこと)、河より御船率(ゐ)て、御向かへに参り相ひき。
時に倭姫命大きに悦び給ひて、大若子命に問ひ給はく、
「吉き宮処在り哉。」と。
白(まを)さく、「佐古久志呂(さこくしろ=裂釧)宇遅(うぢ)の五十鈴の河上に、吉(よ)き御宮処(おほみやどころ)在り。」と白しき。
亦(また)、悦び給ひて問ひ給はく、「此の国の名は何そ。」と白さく、「御船向田(みふねむくた)の国。」と白しき。
其の処より御船に乗り給ひて、幸行したまひき。其の忌む楯桙(たてほこ)、種種(くさぐさ)の神宝を留め置きし処の名は、「忌楯小野(いむたてをの)と号(なづ)けたまひき。


倭姫命と五十鈴川を遡る旅

前回(2021/09/23)は、倭姫命一行と南伊勢を巡る旅であった。
その旅の最後に、大若子命と会うことができた。大若子命は「五十鈴川の川上に理想の地がある。」と倭姫命に伝えた。
倭姫命一行は、五十鈴川の上流へ向かうために、宮川から海へ出て、二見の地を越える必要がある。
それは2021/08/01に旅をした。
宮川の河口の大湊と神社港 (かみやしろこう)
五十鈴川河口周辺の地
の旅が必要である。
④ → ➄ → その続きに以下の五十鈴川を遡る旅となる。

御津(みつ)、大屋門(おおやと)

民話の駅蘇民で昼食を買った。五十鈴川を渡り、右に栄野神社を見て左に折れ、暫く走ると安土城天守閣が右に見える。
この地が『倭姫命世紀』で記される「御津の浦」の現在の三津地域だと比定される。
しかし、その先の小島と大屋門(おほやと)は判らない。
「大きな家屋の門の前にあるような土地」を見つけようと試みるが、小島が判らなければ大屋門も判らない。
それでも諦め切れず、光の街やら朝熊山麓公園・朝熊運動公園を回っても、車でなかなか五十鈴川に近づくことは困難である。
光りの街では丁度除草作業の出会いに遭遇した。
目撃したのは、日本にこんな沢山若者がいるのかと思うほど若い街である。
一方、メガソーラーという太陽光パネルが隣接し、負の遺産とならないことを切に願った。
[訳]
ここからその河口の上流に幸行した。船が泊まった処を「御津(みつ)の浦」と名付けた。そのほとりから幸行きすると、小島があった。その島に行って山の頂上や川の周辺を見渡して、大きな家屋の門の前にあるような土地があったので、そこに登って、その地を「大屋門(おほやと)」と名付けた。(大屋門の所在地は不明)
[原文]
此(ここ)に其の江(え)の上(かみ)に幸行きす。御船(みふね)の泊まりし処(とこを)を名づけて「御津(みつ)の浦」と号(なづ)けたまひき。其の上(ほとり)より幸行きしたまふに、小嶋(こしま)在りき。其の嶋に坐(ま)しまして、山の末河内(かふち)見廻(みめぐ)らし給ひて、大屋門(おほやと)の前の如くなる地(ところ)在りき。
其の処に上りまして、其の処の名を「大屋門(おほやと)」と号(なづ)けたまひき。

神淵河原(かみふちかはら)、鹿野見(かのみ)、止鹿乃淵(とがのふち)

ここには、①神淵河原(かみふちかはら)、②鹿野見(かのみ)、③止鹿乃淵(しかのふち)の三つの地名がでてくるが、どれもが同一の土地を指しているように感じる。
しかし、地名の種類は
①は神が在る淵の河原という地形的な地名
②はこの「苗草戴く国」を命名した「この国」の広範囲な地名
③咎(とが)められたそのspotの地名
と想像した。

[訳]
「大屋門」からさらに幸行し、神淵河原という地にいくと、苗草を頭に載せている老女と逢った。
倭姫命は質問をしした。「あなたは、何をしておいでか。」と。
老女は「私は苗草を取る女で、名前は宇遅都日女(うぢつひめ)といます。」と答えた。
さらに倭姫命は質問をした。「どうしてその様なこと(苗草を頭にのせていること)をしているのですか。」
「この国は鹿乃見哉毛為(かのみやもゐ)」⇦意味不明な言葉らしい・・・察するに『この地域ではこうするのさ』といっているのではないか?・・・
この地を「鹿野見(かのみ)」と名付けた。
その老女は「何故そんなことを質問するのですか。」ととがめた。
それで倭姫命は、その場所を「止鹿乃淵(咎の淵)」と名付けた。
[原文]
其の処従(ところよ)り幸行したまひ、神淵河原(かみふちかはら)に坐しませば、苗草戴(なへくさいただ)く耆女(うば)参り相ひき。
問ひ給ふ、「汝(いまし)、何をか為(す)る。」と。
耆女(うば)白(まを)さく、「我(やつかれ)は苗草(なへくさ)を取る女(をみな)、名は宇遅都日女(うぢつひめ)。」と白しき。
又、問ひ給はく、「奈止加加久(などかかく)為(す)るぞ。」と。
耆女(うば)白(まを)さく、「此(こ)の国は鹿乃見哉毛為(かのみやもゐ)。」と白(まを)しき。
其の処を「鹿野見(かのみ)」と号(なづけたまひき)。
「何そ是(か)く、問ひ給ふ。」と止可売(とがめ=咎め)白しき。
其の処を、「止鹿乃淵(とが咎の淵)」と号(なづ)けたまひき。

県道37号から、カラオケホールを見て右に折れ、終点が朝熊神社である。
駐車した場所は朝熊神社の前で、大きな五十鈴川に支流の朝熊川が流れ込む何か懐かしさが感じられる河口である。
五十鈴川から朝熊川へ大きな鯉の群れが悠然と泳ぎ、足元の岸には15㎝もある大きな蟹が喧嘩をし、鮮やかなブルーのカワセミが音もなく目の前を高速で飛んでいく。
丁度、後ろの小高い山の中には朝熊神社が控え、前の朝熊川の対岸には五十鈴川へ突き出たこんもりとした森の上に鏡宮神社が少し見える。
「倭姫命世紀」には、朝熊神社も朝熊御前神社も鏡宮神社に関する記載はない。
しかし、後述する「奈尾之根(なをしね)の宮」で倭姫命にご馳走を振舞った神の中に、大歳神(おおとしのかみ)や朝熊水神(あさくまのみずのかみ)がいるが、いずれも朝熊神社の祭神であり、関係があったと思われる。

朝熊神社と朝熊御前神社と鏡宮神社を参拝した後、昼食タイムである。(いつもの民話の駅蘇民で買い求めた。)
下記写真の対岸の地が鹿之見の地である。堀割橋を通り、未舗装の土手を対岸に朝熊神社が見える所まで車を走らせた。
そこは、日本らしい伊勢の地の絶景であった。

鹿海町にある加努弥(かぬみ)神社である。祭神は大歳神の娘の稲依比女命である。



23 伊勢国 矢田の宮 (伊勢市楠部町)【矢田宮跡】(2021/10/03)

止鹿乃淵(とがのふち)から、「矢田の宮」に幸行と記載があるが、「矢田の宮」は比定地が不明だ。
しかし、矢田川が流れている地域を矢田の地とするなら、その流域であろう。
[訳]
その止鹿乃淵(とがのふち)から、「矢田の宮」に幸行をされた。
[原文]
其れ従り(それより)、矢田の宮に幸行きしたまひき。

24 伊勢国 家田田上の宮 (伊勢市楠部町) (2021/10/03)

それからさらに幸行して、「家田の田上の宮」に遷られた その宮に度会の大幡主の命(大若子命)が訪れ、天照大御神に捧げるお米を作る御田を定めた。 その御田(神宮神田)の南側の家田の森に「家田の田上の宮」があったという説。ここには家田の地蔵尊の所までにあったという。 もう一カ所は古文書により櫲樟尾(くすお)神社旧跡地に比定されるということであった。

[訳]
次に、「家田の田上の宮」に遷り幸行された。 その宮に滞在したとき、度会の大幡主の命(大若子命)は、天照大御神の朝と夕に捧げるお米を作る御田(みた)を定めた。 この御田は、宇治の田の上手にある。 抜き穂田(天照大御神に供えるために稲穂を抜き取ることをする田)と名付けるのは、このことである。
[原文]
次に、家田(いへた)の田上(たかみ)の宮に遷り幸行(みゆ)きしたまひき。 其の宮に坐(ま)します時、度会(わたらひ)の大幡主(おおはたぬし)の命、皇太神(すめおほみかみ)の朝(あした)の御気(みけ)夕(ゆふ)べの御気(みけ)処の御田(みた)と定め奉りき。 宇遅(うぢ)の田の田上(たかみ)に在り。 抜き穂田(ほた)と名づくるは、是れ也。

この時期に倭姫命が定めた社


25 奈尾之根(なをしね)の宮
●伊勢市宇治今在家【内宮摂社ー津長神社(2021/10/10)】
●皇女ヶ森 伊勢市楠部町【宇治乃奴鬼神社の社地(2021/10/03)】
●興玉の森 伊勢市中村町【内宮摂社ー宇治山田(うじようだ)神社(2021/10/03)】

「奈尾之根(なをしね)の宮」は、皇女の森、宇治山田神社などいろいろな推定の域を出ない比定地がある。
皇女の森は五十鈴川の筋向いの宇治乃奴鬼神社の社地であり、あまりにも「家田の田上の宮」に近い。
宇治山田神社は興玉の森にあり、直ぐ南に五十鈴川がある。
ここ興玉の森が大田命の居住地という説がある
なぜなら、『神名祕書』などによると興玉神は猿田彦大神またはその子孫・大田命の別称であるということから推察される。

義理の父は、興玉の森に接する家で生まれ、結婚するまではそこで育った。
家の裏から宇治山田神社に通じる道があったという。
毎日通っていた小学校は、「神宮神田」に道路を挟んで接する四郷小学校で、今更ながらにたいへん倭姫命との縁が深い所だ。
妻は小さいころに泊まりがけで従弟と遊んだ頃が懐かしく、夜、裏庭に接する漆黒の興玉の森はそれは恐ろしく不気味であったという。
その家は今は無い。
更地になった土地には、玄関前にあった木と井戸だけが妻の想い出として残っている。

興玉の森から細い路地を歩くと直ぐに五十鈴川である
そこはかつて妻の遊び場所であった。
妻は、時には遠くを見る様に、時には自分を見つめる様に、その日々を話してくれたのである。

本日、最後の予定地は津長神社(五十鈴の宮の船着き場)だ。
しかし、日も傾き始めて、場所も内宮の宇治橋近くにあり、駐車も無理そうだ。
今回はこれで終了し、次回としたのである。

[訳]
倭姫命一行は、「家田の田上の宮」から五十鈴川上流へ幸行きし、「奈尾之根(なをしね)の宮」に行かれたとき、出雲の神の子である「吉雲建子命(よしくもたけこのみこと)」またの名を伊勢都彦神(いせつひこのかみ)と櫛玉命(くしたまのみこと)の二つの別名があり、並びにその御子の大歳神(おほとしのかみ)、桜大刀命(さくらとじのみこと)、大山祇命(おほやまつみのみこと)、さらに朝熊水神等(あさくまのみなとのかみたち)が集まり、
さらに、五十鈴川の入り江で倭姫命一行に、ご馳走を差し上げた。
その時に、猿田彦の神の子孫で、宇治の土公のご先祖である大田の命倭姫命に会いに参上した
[原文]
其れ従(よ)り、幸行(みゆ)きしたまひ、奈尾之根(なをしね)の宮に座(ま)しまし給(たま)ふ。
時に、出雲の神の子吉雲建子命(よしくもたけこのみこと)、
一(また)の名は伊勢都彦神(いせつひこのかみ)、
一(また)の名は櫛玉命(くしたまのみこと)、並びに其の子大歳神(おほとしのかみ)・桜大刀命(さくらとじのみこと)・山神大山罪命(=大山祇命おほやまつみのみこと)・朝熊水神等(あさくまのみなとのかみたち)、
五十鈴川後(いすずがわじり)の江にて、御饗(みあへ)奉りき。
時に、猿田彦神(さるたひこのかみ)の裔(はつこ)宇治の土公(つちきみ)が祖(とほつおや)大田命(おほたのみこと)参り相ひき。


宇治土公(うじのつちぎみ)の先祖大田命(おおたのみこと)

[訳]
「あなたの国は何というのですか。」と尋ねると、「佐古久志呂(さこくしろ、拆釧)宇遅(うぢ)の国です。」と答えて、天照大御神にお供えする稲を作る田を進上した。
倭姫命問はさらに尋ねた、「最適な宮処の候補地はどこにありますか。」と。
大田の命は答えた。「佐古久志呂宇遅(さこくしろうじ)の五十鈴の川上は、大日本(おおやまと)の国の中において、格別に神秘的な霊地です。その中に、私が三十八万歳の間にもまだ見たことがない霊妙なものがあります。照り輝く事は日月の様です。
それは、普通のものではありません。きっとこの国のご主人が現れ、鎮まるべき聖地であろうから、その時を念じて、この地を敬意を込めてお祀りしております。」と。
[原文]
「汝(いまし)が国の名は何そ。」と問ひ給ふに、
「佐古久志呂(さこくしろ、拆釧)宇遅(うぢ)の国。」と白して、御止代(みとしろ)の神田を進(たてまつり)き。
倭姫命問ひ給はく、「吉(よ)き宮処(みやどころ)有り哉。」と。
答へて白(まを)さく、「佐古久志呂宇遅(さこくしろうじ)の五十鈴の河上は、是れ、大日本(おほやまと)の国の中に、殊(こと)に勝りて霊(あや)しき地(ところ)待(はべ)るなり。其の中に、翁三十(おきなみそぢ)八万歳(よろづとせ)の間にも、未だ視知(みし)らざる霊(あや)しき物有り。照り輝くこと日月の如くなり。
惟(こ)れ、小縁(おぼろけ)の物には在(ま)さじ。
定めて主(ぬし)出現(いで)御坐(ま)さむか。
尓(そ)の時献(たてまつ)るべしと念(おも)ひて、彼(か)の処に礼(うやま)ひ祭申せり。」と。


天照大御神ご誓願の地

[訳]
倭姫命は、直ちに、大田の命がいう聖地行きご覧になると、それは昔天照大御神が(天上で)誓って「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みづほ)の国の内に、伊勢という風早の国は、美(よ)き宮処がある」と見定めると、その時天から投げおろしました、天の逆太刀(あめのさかたち)・逆鉾(さかほこ)・金鈴等(かねすずら)だったというわけです。
倭姫命は、そのことを心から喜び感動し、そのことを朝廷に報告されたのである。
[原文]
即(すなは)ち、彼(か)の処に往到(いた)りて御覧(みそなは)しければ、惟昔(むかし)大神(おほかみ)誓願(ちか)ひ給ひて、<豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みづほ)の国の内に、伊勢加佐波夜(いせかさはや=風早かざはや)の国は、美(よ)き宮処有り>と見そなはし定め給ひ、上天従(あめよ)りして投げ降ろし坐(ま)したまひし天の逆太刀(あめのさかたち)・逆鉾(さかほこ)・金鈴等(かねすずら)、是れ也。
甚(にへさ)に懐(みこころ)に喜びて、言上(ことあ)げし給ひき。



五十鈴の宮の船着き場  2021/10/10

五十鈴の宮(皇大神宮)を定めた後、御贄処を求めて今の池の浦に辿り着いたとき、粟皇子神社を定めた
その帰路に、五十鈴川を遡り船を降りた所を津長原と名付けた。
その地は丁度現在の内宮の宇治橋あたりである。
当時、五十鈴川の洲長になったところから倭姫命によって定められた船着き場の地であるとされる。
しかし、上記のように、天照大御神ご誓願の地であると決まった以上、大田命の案内で幾度も足を運んだ地に違いない。

伊勢市宇治今在家町【内宮摂社ー津長神社(2021/10/10)】

内宮の宇治橋前の駐車場直ぐ裏手の杜の中にある。
祭神は栖長比賣命(すながひめのみこと)で水の神である。
同座の新川神社の祭神は新川比賣命(にいかわひめのみこと)で川の神である。
五十鈴の宮(皇大神宮)の門前を流れる五十鈴川は、上記二女神により守られている。