鎮魂家(ちんこんか)


日本中が鎮魂家であればいい
そして ご先祖様になりたいと思う

お盆には迎え火・迎え提灯など、あの世から来るご先祖様が迷わないように、玄関先で薪を燃やしたり、提灯を吊るしたりする家があったという。今もそういう家があるそうだが、とんと見かけない。
そもそも、ひと昔前まで、御先祖様はいつも見守っていてくれていると日本人は思っていた。田舎ではご先祖様の写真が鴨居に並んでいる家が今でもあるではないか。

今は現代である。
従来のご先祖様だけではなく、亡くなった親類、先輩、友人、小泉八雲のような尊敬する人々を、『ご先祖様』と思うことに何の壁もないのではないか。
であるなら、そういう『ご先祖様』の来訪もあるのではないか…と考えみたらどうだろう。。

その来訪とはいつなのか?
それはその人の夢を見たり、その人のことを思い出したり、また真剣にその人の著作を読んでいたりしている時と思いたい。
小泉八雲の著作を読んでいると、本人が少しでも理解できるよう働きかけてくれるのである。完璧に読み解いていたら、本人と会話ができるかもしれない。
その時、小泉八雲に対して供養、つまり鎮魂していると思えるが、実は彼も我々を鎮魂してくれているのではあるまいか。
だとすると、これから努力してご先祖様になる意味がある。
そうすることで、未来の子供や孫たちに責任が果たせるのではないか。
子供、孫がいなくても、助けの必要な人がまわりにいたら、その人を助ければよい。結果その人のご先祖様になり、いずれその人の鎮魂家で再会することができると思えばよいではないか。
たとえ一人暮らしになろうとも、鎮魂家でありさえすれば立派な家庭となる。

この家はご先祖様が訪れる鎮魂家であることを、絶えず自分自身に示すために、目印を飾ってはどうか。
現代版の迎え火・迎え提灯として床の間にお気に入りの伊勢型紙のランプシェーとか、現代版の鴨居のご先祖様の写真として玄関のニッチに縄文の合掌土偶のレプリカとか
それで、ずっと、ず~と、ず~~と豊かな家になれるのではないか。
こんな世の中である。昔のように、ご先祖様のチカラを借りればよい。これから未来を背負ってくれる人のために、ご先祖様になりたいと思う。


永遠の世界に生きる人格的生命

100分で名著というシリーズのTV番組で「善の研究 西田幾多郎」が放送された。
4回に分けて放送されるが、最終回の『絶対矛盾的自己同一』が放送されると、このページの主題である「鎮魂家」を思い出したのである。


西田幾多郎は母親・長男・三人の娘そして妻と相次いで亡くし、『しみじみと この人生を厭いけり けふ此頃の冬の日のごと』存在し生きることそのものが悲哀であると語った。人間の生死を問題にするとき、過去・現在・未来の矛盾的関係(『自己存在の矛盾性』)を超えた世界が現れると西田は考えた。ここから、例えば「生と死」・「善と悪」という対立を乗り越える『絶対矛盾的自己同一』(絶対に矛盾するものが、不可分な形で一つになっているありよう。)という、西田を代表する思想が生まれたのである。西田の生み出した言葉は、考えた先に理解される「概念」ではなく、体感されるべき「経験」だという。

解説本引用】長男を喪った西田の光景が門下の木村素盛衛の日記に書かれている。
「西田先生の外套の破れている事を私が話したら加川が「あれは亡くなった長男が三高で着ていた奴を息子の影身だと云って着ているんだ。腕時計もそうなんだ。田辺さん(哲学者 田辺元)の奥さんがそれを見て泣いたんだ」と云い出した時には私は一生懸命涙を圧えねばならなかった。
この時西田は、亡き息子を懐かしんでいるのではない。息子の外套と腕時計を身に着けることで、いわば「生きている死者」となった愛息の存在をより強く感じようとする。息子は形を変えた姿で存在いている。しかし悲しみは終わることがない、それがこのときの西田の実感である。論文「絶対矛盾的自己同一」には、こうした生と死をめぐる西田の経験を感じさせる次のような一節がある。
『過去と未来との矛盾的自己同一的現在として、世界が自己自身を形成するという時我々は何処までも絶対矛盾的自己同一として我々の生死を問う者に対する、即ち唯一なる世界に対するのである。我々が個物的になればなるほど、爾(し)かいうことができる。』
過去は過ぎゆき、未来はまだ来ない。これらが現在と相反することによって「今」がある。しかし、人間の生死を問題とするとき、この矛盾的関係を超えた過去・現在・未来が一つになる「絶対矛盾的自己同一」の世界、「唯一なる世界」を経験する、という。この「唯一なる世界」を西田は永遠と呼ぶ。 「絶対の矛盾的自己同一たる永遠の現在の瞬間」 あるいは 「時が永遠の今の自己限定として成立する」 とも西田はいう。永遠がなければ時間はなく、あらゆる時間は、永遠の限定的な顕れである。すべての過ぎゆく時間は、同時に永遠でもある。という。
すでにいないはずの死者が、永遠の次元から現在に深く介入し、今だ死んでいない生者が、死者の世界と交わる。「絶対矛盾的自己同一」は個人的経験をその深みに探る時、いっそうはっきりと感じられるという。西田幾多郎の哲学はこうした切実な経験からつむぎ出されているのである。


『すべての物は変じ行く。何物も永遠なるものはない。
我々の自己は絶対の自己否定において、自己を有(も)つ 自己自身の死を知る所に自己自身であり、永遠に死すべく生まれるものである。』
TV解説者】私達が持っている私よりも、もう少し大きな私ががありそうだ。その大きな私が開花していくのが善である。むしろ小さな自分を手放すことで本当の自分を持つ。到達できなくても存在している。そこが大事である。西田の哲学を読んで力づけられるのは、もしかして我々は安心して悲しんだり安心して苦しんだりすることが人生に許されているのかもしれないと思うことがある。本当の自分が我々の気づかない所にあるからだ。人とつながっている自分が、一人で孤立して生きていないで、他とのつながりの中で生きている自分いうものが、自分の気づかない所でしっかり自分をささえてもいる。

『人はしばしば大いなる生命に生きるために死ぬるという、死んでいきるという。
しかし、死んだ者は永遠の無に入ったものである。
一度死んだものは永遠に生きない。個は繰り返さない。人格は二つない。
もし、爾(し)か考え得るものならば、それは最初から生きたものではないのである。外的に考えられた生命である。生物学的生命である。
然らざれば、自己自身の人格的生命を単に理性的に考えているのである。』「場所的論理と宗教的世界観」
TV解説者】我々は永遠に生きないのではなくて、永遠の世界で生きているんだと西田は言いたいのである。私達は人が亡くなったら人は永遠に生きていないと考えるときは、その人が考えているのは我々の肉体と結びついている生物的生命である。しかし、人格的生命というのは、私達の死を乗り越えてなお存在し続ける何かなのではないか。人間が死んでももしかしたらなお、他者の中で在り続けるようなそんな存在を西田は 人格的生命 と考えているのではないか。

ナレーション】人間は死を経て尚、大いなる生命に生きる存在でもある。それを西田は人格的生命と呼んでいる。その人格的生命を思惟することで、真の自己に出会えると西田の哲学は三十代で書かれた「善の研究」にも通じるものであった。

改めて、真の自己とは何であろうか問われると、それは他者の存在を尊ぶとき、つまり、自己を深め自分が他者に開かれ、現在だけでなく過去も未来も共時的に人類に繋がると西田は言っているのではないか。
「一人暮らし」であっても、他の人を助けながら助けられながら共に生きることにより、徐々にしかも無意識に真の自己に目覚ていき、人格的生命として「鎮魂家」で生き続けるのである。

「この家はご先祖様が訪れる鎮魂家であることを、 絶えず自分自身に示すために、 目印を飾ってはどうか。」と記載した。玄関のニッチにある縄文土器のレプリカを見るたびに、昨日の自分を手放し、今日の自分を信じ、真の自己があると信じたい。それ故に「もしかして、我々は安心して悲しんだり、安心して苦しんだりすることが人生に対して許されているのかもしれない。」という解説者の言葉に深い安堵を覚えるのである。
他の人を助けながら助けられながら共に生きるているとき、小泉八雲の著作を読んでいる横で、小泉八雲の人格的生命に助けられているかもしれない。
「鎮魂家」とは、そういう存在であると思いたいのである。